読書日々 1640 モンテーニュの流儀(1) 

◆240419 読書日々 1640 モンテーニュの流儀(1)
 暖かい。アンカもついに外した。それでもまだまだ季節の変わり目である。
 1 それにしても、藤原不比等の娘、片や文武天皇夫人となった宮子(不比等娘)と、この二人のあいだに生れた聖武天皇(←首皇太子)と光明子(非皇種ではじめての皇后)の娘(阿部内親王=皇太子→孝謙・称徳天皇)の2代にわたる「混乱」と「乱脈」ぶりは、日本史のなかで特記すべき事柄に思える。
 光明子(皇后)は聖武をスポイルし、娘孝謙・称徳を出口のない溝に閉じ込め、自らは、やりたい放題、(唐→)「周」王朝を建て、則天武后と名のり、盛名=虚名を轟かせ女帝になりたかったのでは、と思える。
 光明子は「天皇政治」(その理念は「統治すれども支配せず」)とは異なる、則天武后の模倣政治を断行しようとし、娘に替わって、あるいは娘をコントロール下に置き、どうも自ら天皇位に就こうとしたのではなかろうか、と思いたくなるような逸脱を敢えてしたように思える。しかもこの人、「反省心」の欠片もないようなのである。
 ま、こういう「混乱」と「閉塞」があって、1000年ちかくにわたる「女帝」の時代がなかった、ともいえる。直近では、平安遷都以降、王朝政治と文化、文学が隆盛したともいえる。
 不比等は、日本史を編纂し、律令を整備し、「皇統」とその「継承」の筋道を示し、「国語」(日本語)確立を準備し、「都」(平城京)を建設した。その功績をいくら高く見積もってもかまわないが、その末期、「光明子の乱」と呼びにふさわしい、混乱の「因」をつくる役割を演じたことも忘れない方がいい。
…1 社長の哲学
 *『日経BP マンスリー』(07/4-09/3)連載
1 読書論  モンテーニュの流儀
 過日、新入社員を前にして「本を読みなさい。バーチャルでは現実感覚をどんどん失ってゆく。デジタルではなく、活字が重要だ」と力説する人たちの番組を見る機会があった。週に何度もTVのニュースショウに出演するような人ばかりである。ただし、だれ一人よく本を読んでいるようには思えなかった。
 「本を、それも本格的な書物を読みなさい」という人の言を、あまり信用する必要はない。読書家を恐れる必要はない。第一講目にまずこういおう。
「読書で困難な問題にぶつかったとしても、爪を噛んだりしない。一、二回攻めつけてみるが、放り出しておく。」
 モンテーニュの言葉だ。一六世紀のフランスの人で、ギリシア・ローマ哲学・文学を自家薬籠中のものにして、近代西欧の読者に精力的に解読、紹介した哲学者である。その畢生の名著『エセー』は、たった一冊で古代ギリシア・ローマ思想の概略と細部を味読可能にする、奇蹟のような書物だ。もちろん邦訳も何種類かある。
 モンテーニュは膨大な読書量の人だ。その彼が、難解な箇所にぶつかったら、拘泥せずに、放り出しておくにこしたことはない。固執すればするほど理解不能になるし、楽しい気分でなくなる、というのだ。ただし難解で放ってしまった箇所も、何かの折、判然とするところがある。読書の小さくない醍醐味の一つである。
 モンテーニュはまたいう。「もしその本がつまらなくなれば、私はべつの本をとりあげる。何もすることがなくなったときにだけその本に身を入れる。」
 マルクスの『資本論』を全巻熟読玩味した、という人がいる。たいへんだったろうとは思うが、感心するわけではない。モンテーニューならこの手の本は遠ざけただろうと思う。『資本論』を一〇年間かかって全巻読んだという人にであった。最初読んだ箇所はとうに忘れているだろうな、と思えた。『資本論』は読んで面白い本ではない。難解の連続である。それでも分からないところはどんどん飛ばして、一週間で読んだことがある。全体の雰囲気は分かった。少なくとも分かったつもりになった。これも読書の醍醐味ではないだろうか?
 もっとも、『資本論』を厳密(科学的?)に読んだといわれる宇野弘蔵博士は、「私は全巻を通読したことがない、必要な箇所を必要なとき徹底的に読み込んだにすぎない」というようなことをいった。なるほどと思うところがあった。
 またモンテーニュはいう。「私の役に立っている本は、フランス語に訳されたプルタルコスとセネカだ。これらが二つとも私にとってすばらしく便利だというわけは、私の探す知識が断片の形で扱われているため、私にはとてもできない長い時間の勉強が必要ではないからだ。」
 本読みのなかには「原典」で読めという人がいる。モンテーニュはそれを自分の流儀ではない、という。稚拙な(他国)語学力で読むなんて、時間がかかりすぎて、辛抱できない。有益な部分を集めた「断片」は、とりつくのが簡単だし、好きなときに投げ出してもいい、というのだ。
「私は、学問を使いこなす本を求める。学問を打ちたてる本を求めない。」
 このモンテーニュの言葉は貴重だ。彼はアリストテレスの『形而上学』や(おそらく)ヘーゲルの『論理学』を、学問を打ちたてる本であるという理由から、否定しはしない。しかし、プルタルコスの『対比列伝』(英雄伝)や『倫理論集』、セネカの『書簡』のように、人生に役立つ書物を大事にし、好むのである。これはとても大切な態度だ。
 皮肉屋のモンテーニュである。少しだけ注解を加えれば、断片=短いとは「簡明」なことだ。簡明で楽しく人生に役立つ「文」を読む。モンテーニュから学びたい流儀である。