読書日々 658

◆140207 読書日々 658
誤植と誤謬について 釈明と居直(?)
 1/31の読書日々で、冒頭、「山本雄基」を「山田雄基」と誤記した。ご本人から指摘され、赤面の至りである。人名の誤記は本当に申し訳なく思う。わたしでも、好きな女に「小彌田」と書かれたはがきを受け取ると、しぼむ。この日記をお読みいただいている人には、わたしがしばしば「誤記」するのに気づかれること少なくないと思う。昨年3月までは井上さんが「校正」してくれたが、それでもよく誤記していたと思う。以下は言い訳だが、それ以上でもある。
 「誤記」「誤植」のない本はない、といわれる。誤植は避けがたいと居直りたいのではない。京都で古くから印刷業を営む人がいた。非常に「文字」に厳格な人で、とりわけ誤植に厳しい古老だった。その人が自分の文集を出した。精魂込めた校正に心掛けたと思われる。まだ大学院のときだったが、左翼の同人誌を出している関係で出版でお世話になっており、わたしも一冊いただくことができた。冒頭1頁2行目でなかったろうか。誤植が飛び込んできた。あっと、本を落としそうになったが、著者の無念さがより強く伝わってきた。「まえがき」は最後に書くのでこんな間違いがよく起こる。以後、その人の前で、この本のことを語ることができなくなった。
 誰でも誤植は避けられない。誤植など気にする必要はない。こういいたいのではない。しかし誤植を少なくすることはできる。誤植ゼロの書物は不可能に近い。だから誤植を避けるためには、本など出さなければいい。こういうことになる。
 誤謬を避けるためには、最悪のことを想定して、ことを決め、行動に移せ。こういう言い方をする評論家や知ったかぶりによく出会う。「想定外」を罪だといわんばかりに責め立てる論法だ。しかし、誤謬を避けることは、誰だって不可能だ。否、可能なのは、何事も想定せず(現在未来のことについては手を触れず)、すでに起こったことにだけ触れ、その欠陥を衝く、という行き方である。「最悪」の結末だけをいいつのる、浜なにがしとか、山口某の論調で突っ走る、にしくはない。しかしこれこそ最悪ではないか。
 わたしはじゃんじゃん書いてきた。99%断らずに来る注文に応じた。不案内の課題だって、「時間」が与えられれば、調べて書いた。400頁の本がその日に着いて、次の日までに書評4枚(1600字で書け)送れという注文だってこなしたことがある。faxがなかったので、千歳空港まで車を飛ばした記憶がある。読んで、書いて、送った原稿は、そんなに悪いできではなかった(と思う)。もちろん、欠点を取り上げればきりがないが、なにごとも「仕事」である。書きたいことがあれば、時間超短縮しても、書ける。こう思える。
 誤謬は正すことができればいい。正すチャンスがあるのに、しなかったことは、気にかかる。2/5に「被爆二世で、耳が聞こえない」をトレードマークに、ゴーストライターを使って、現代のベートーベンという名声を「ほしいまま」(?)にしてきた男が、暴露された。フォールン・エンジェルさながらにだ。ゴーストはいたっていい(仕方ない)。しかし、ゴーストというのは「実体」あってのことだ。作曲の実績も無いただのゴーストにすぎない男が、多少とも実体のある作曲家に丸投げしていたのである。しかも「被爆」と「障害」という二重苦を背負った、もうそれだけで世間の感心と同情が集まるせこいやり方でだ。かつつ辛口評論家の百目鬼が、被爆体験、反戦、反公害、女性をトレードマークに芥川賞を取った女性作家を、「小説外受賞」(表現は違ったかもしれない)と痛烈に批判した。しかしこの作家だって、多少とも作品を書くことのできる人だった。かの二重苦を標榜する「ゴースト」とは異なる。
 今年も幸運が舞い込んできた。拙著『自分で考える技術』がPHP生活教養新書、『まず「書いてみる」生活』が文芸文庫に入ることになった。「日本人の哲学3 政治・経済・歴史の哲学』を書き上げたら、1~2冊書き下ろしがしたい。こうも思っている。欲張りだな。われながらあきれる。それに、3/12に横浜で、吉本隆明について鷲田が講演する、というパンフレットが届いた。