読書日々 956

◆191018 読書日々 956
忘れたいのに、……
 風邪を引いた。咳は出なかったが、鼻水が出る。涙とともにだ。味が分からない。酒が旨くない。(それでも呑んだ。)わたしの方は四五日で平時に戻ったようだが、連合あいにはまだ咳が残っている。苦しそう。それほどに暑かった夏が嘘のようだ。
 1 この月、予想を超える水害に襲われた。荒川等に囲まれた、かつて水害銀座だった東京低湿地帯に大きな害が出なく、信濃川の支流千曲川や阿武隈川流域に予想外の被害が出た。死者数も予想をはるかに超えている。
 1985年、長沼に居を構えた。長沼は石狩平野のどん真ん中で低湿地帯に位置する。(そうそう戦前最後の共産党中央委員長野呂栄太郎のそしてわたしの先輩であった西部邁のお父さんの郷里で)石狩川の支流、千歳川、夕張川が長沼で合流し、江別(市)で本流に合流する。この三本、いずれも長大だ。しかも本流・石狩川が増水すると、低湿帯を流れる満杯の千歳・夕張川に逆流し、石狩平野の過半を水没させることしばしばだった。
 それに江別が水没から免れるために、その北と南の堤防が(相対して)低く、当別(北)・南幌・長沼(南)に流れ込むようになっている。1980年代、わたしがまだ三重(上野)にいるときだったが、ちょうど夏休みで帰省していたときで、三日三晩雨が降る続いた。ために石狩平野の低湿地帯が完全に水没し、長沼はなすすべもなく水底1・8メータに埋まった。その長沼に移り住むのである。標高200メータ、高台に敷地を求めた。電気もない、もちろん水道もない「僻地」だった。ただし石狩平野の全貌、さらにその西奥、札幌を取り囲む山脈の四季が目前に広がっていた。ただしその間、幸運なことに、大きな水害はなかった。
 そんなわたしの短い半生で、二度、大水害に遭っている。一度目は1950年、わたしが生れた白石村字厚別の過半が、厚別川(石狩川支流)の氾濫で水没したときだ。水田地帯は完全に埋没した。住民は自衛隊の前身(保安隊)のボオートで救出された。二度目は、上阪し、予備校に通っていた1961年の時、第2室戸台風とよばれた猛烈なヤツで、下宿していた親戚の家は上町台地にあったため水没は免れたが、予備校(YMCA)の地下は完全に土砂で埋まった。それよりも風が強く(最大風速60メータ)、瓦が飛び、窓は飛ばされるという惨状だった。(屋根にへばりつき、隣家の窓の釘打ちをしたときの情景は忘れがたい。)風水害は、生活資材の過半を奪うという経験だ。
 現在、わたしは長沼から30年余をへて厚別に戻ったが、いまでも水害のこの二つはトラウマとなって残っている。
 東京オリンピックの前後、東京は、水不足、雨が降れば荒川、江戸川、大川が暴れなくても、浸水、交通麻痺・死亡、大気汚染と犯罪の街だった。今昔の感に堪えない。
 2 わたしが生れたのは北海道石狩郡白石村字厚別東区四四〇番地であった。現在の住所はすらすらと出てこないが、こども時に憶えたことはさらさらと出てくる。大阪で結婚し、アルバイトで遅くなり、自宅(アパート)に電話を掛けるとき、しばしば電話番号を忘れ、実家に電話をして聞くことがあった。笑い話にもならない。
 ものを書くようになり、なかばそれが仕事になった。あれも書きこれも書き、書きに書いた。それでも二百数十冊になる単行本は、雑誌、新聞、等々活字になったものの三分の二程度のものではないだろうか、と私念する。でも、まるっきりその一つ一つは忘れている。
 書くと忘れる。正しくは忘れることが出来る。より正確にいうと、忘れてもかまわないという安心感が生れる。わたしの書いたものは、デジタル化され、パソコンの中に収まっているが、必要あってのほかは覗いたことはない。それに一度何の気なしに覗いたところ、あまりの「誤植」に仰天し、覗くのが怖くなった。
 というわけで、小さいときのことは忘れているようで憶えている。憶える容量が小さかったためでもあるが、だからこそ忘れることが出来ない。振り払っても追ってくるのだ。対して今書いているものは、今日明日のうちに忘れてしまう。この日記もそうだ。
 書くと忘れる。忘れていいのだ。そう思える。いつでも取り出し、再読できるではないか。
 3 山本夏彦『完本 文語文』(文藝春秋 2000)を再読し、感服した。が、残念というか遺憾ながら、わたしのものではない。一言でいえば捨ててしまったものは復らない。さらにいえば、出来てしまったものは亡くならない。もちろん、「時」の問題で、「間」がである。山本がいうとおりだ。でも山本のごとく多少反抗したいね。微小か? 三宅雪嶺、読みは「快調」。