読書日々 959

◆191108 読書日々 959
陸羯南(くがかつなん)の「日本」
(*一枚ほど書いたところで、本文がとつぜん消えた。それも二度もだ。操作ミスなのか、まったくの不注意なのか、とんと分からない。ひとまず一休みしてから出直そう。)
 昨7日、当地でも初雪がおりた。冬期、札幌の奥座敷定山渓温泉から洞爺湖へと抜ける難所が中山峠である。登りも下りもカーブが続く坂道は、スリップに気をつけないと、どこに飛んで行くか分からない、運転の「鬼門」である。わたしも何度か目をつぶりたくなるほどの「悪夢」事に遭遇したが、運転免許のなくなった昨今は、たんなる悪夢に過ぎなくなった。
 現在戸外は2度、今日、今年の最低気温ではなかろうか。
 1 厠(トイレ)本を漱石にして、当分悩まなくていい気分だ。そのぶん江藤淳の『昭和の宰相たち』は店ざらし状態になっている。ま、雪嶺『同時代史』が大正末を取り扱う段になると、併読することになるやも知れず、そんなに回り道でもないような気がする。
 漱石全集(角川版)を、岩波版を差しおいて買ったのは、安かったことに加えて「解説」を吉田精一が書いていたことが理由でもあった。受験時代、たしか吉田(1908~84)『評釈・現代評論』(旺文社文庫)を読んでいたので(長沼の旧書斎に残っているはずだ)、近代文学界の天皇といわれていたということをあとで知ったが、読みやすい書き方をするとというのが受験時代の記憶に残っていた。「解説」や評論は、当の作品を読んでから読め、という気風が「戦後」派のわたしたちの空気だった。だが吉田の解説は、漱石を読むとき、おおいに参考になった。
 たしかに漱石の小説は解説なしでも読む事が出来る。それでも、江藤淳からはじまって、漱石山脈の人たち、同時代人たち、等々、漱石をめぐる旅をわたしも人並みにしてきたが、漱石の評論と文学作品との関係はとても面白い。
 ただしわたしは、作家の「人生」は他者はもとより作家自身が書いた「証言」ではなく、「作品」(「言葉」)のなかにある、といつも自分自身に言い聞かせてきた。「人生、極まれば仕事」というキャッチコピーで、『漱石の「仕事論」』(彩流社〔言視舎〕 2005)を書いたのはまさにその伝で、一見すればいまはやりの「仕事改革」とは逆方向を向いているように思えるだろう。(そんなことはない。)
 2 雪嶺(1860~1945)は漱石(1867~1916)の同時代人のように思える。だが幕末から明治維新期の激動を肌と言葉で知っているかどうかの違いは大きい。
 漱石は子規の友人で、子規が「有名」になったのは、1892年、明治期最初で随一のクオリティペーパー(有識者が読む新聞)「日本」に(縁故で)入社、「獺祭書屋俳話」を連載して俳諧の、また「歌よみに与ふる書」連載で短歌の革新運動を始めた。この「革新」運動が和歌と俳諧から権威を奪うことができたのは、山本夏彦もいうように、一つに知的権威があった「日本」紙上に連載されたからでもあった。古今集や芭蕉を否定するなんて、いまじゃ、バッカじゃなかろうか、などといわれるだろう。
 この「日本」を主宰したのが陸羯南(くがかつなん 1857~1907)で、この新聞の創立者で社主だったが、創立は帝国憲法発布の日(明22)であった。雪嶺は陸と漱石のちょうど中間にうまれたものの、憲法発布の評価は陸と同じであった。漱石は憲法や日清戦争の政治評価をスルーしている。しかし司馬遼太郎が活写したように、明治の「一体」から「分裂」(大正期)へ、を意識した点で、雪嶺と同じであるといってよいのではなかろうか。
 3 1月からはじまった歯の再建事業は、11月6日を以て終了した。実に44回歯科医院の狭い椅子に座るのを余儀なくされ、かつて経験しなかったような長期の違和感に堪え、ようやく物をしっかり咬めるようになった。代金も法外(?)に高く、歯の治療はこれで最後でありたいと思える。
 4 気車で、五能線経由、新潟まで在来線、それから上越新幹線で東京に出て、帰りは(東)常磐線で郡山、北上して花巻で乗り換え釜石へ、三陸線で八戸、青森をへて帰るという予定を立てた。日本フォッサマグナを通って上京するという予定を大幅に変えたが、まあ、飛行機をパスしたのだから、いいとするか。