読書日々 1021

◆210115 読書日々 1021 ノモンハン戦役
 暖かい(冬としては)日が続く。窓から入る雪光がまぶしい。
 1 半藤一利(1930~2021)さんが亡くなった。文藝春秋の専務を務め、退社後、「歴史探偵」をなのり、「昭和史」ものを書き残した。もっともわたしは、夏目漱石の「孫」(妻が松岡譲・夏目筆子の子)で、『漱石先生ぞな、もし』(1993)をはじめとした漱石ものを愛好し、その「探偵」ものはあまり信用してこなかった。
 朝日のコラム「天声人語」には長く目をとめなかった。だが、1・14の欄に、半藤さんの死をかりた、「ノモンハン事件」という語が飛び込んできた。
 「ノモンハン事件」は司馬遼太郎が書こうとして書くことが出来なかった「最後の作品」のテーマである。「人語」は、「探偵」の半藤さんが、「ただただ敵を甘く見て、攻撃一辺倒の計画を推進し、戦火を拡大し」、日米開戦の導火線を引いた高級軍人たちを追求した、と書く。わたしが愛読した安彦良和『虹色のとロッキー』も大筋そのような内容であった。
 そのノモンハン事件である。満洲とモンゴルの国境線をめぐる日ソ(モ)の大規模な軍事衝突=バトル(昭1405~09)で、「事件」(case)と称されるが、あきらかにその規模と激しさと損害からいって、「戦役」(戦争 battle)と呼ぶにふさわしいものだ。
 当初、赤軍(ソ蒙軍)は準備万端、兵力(日本の4倍)や戦車・装甲車・火砲(数倍)で圧倒した。だが、関東軍の反撃は、陸軍中央の不拡大命令(国境線を越えた空爆厳禁等)をなかば無視して行なわれ、総体ではほぼ互角の形で終わった。
 ただし、「報道」は、事変前(大本営)も事変後(ソ日報道機関)も、そして今に続いて、関東(満)軍は陸戦でも空戦でも、ソ軍の圧倒的な機械部隊の前に、壊滅的な敗北を喫した、大本営の命令に反して戦闘を指揮した諸将校は厳罰に処された、というものだ。司馬・半藤・安彦さんはこの「報道」にしたがっている。
 2 以下は、ソ連崩壊後の調査結果(最終報告ではない)である。
総兵力
 兵員   日     6万弱           ソ(モ) 8万弱
 戦車         92輛                 438 装甲車385 火砲542
損害
 戦死者      7696                  9703
 戦傷        8647                  15952
 生死不明(内捕虜)  1221(566)
 戦車            29輌     戦車・装甲車 397
 航空機          160機               251
 これをもってソ(モ)軍の「圧勝」といえるだろうか? たしかに機甲部隊はソが圧倒している。だが「1939年5月から9月中頃まで、日本の関東軍とソ連・モンゴル軍とが国境紛争で交戦、日本軍が大敗を喫した。」(広辞苑)は妥当な評価といえるだろうか。否、だ。
 3 しかも陸軍中央は、基本戦略として、北支から全支へと進攻する「南進論」に転じ、「北進」を禁じ、越境・空爆を禁じ、関東軍の反撃を厳禁したのだ。
 理念的にいえば、日本政府(近衛内閣)も軍も、反ソ(反共)路線である。ところが政府ならびに軍中央は、基本戦略を北進論(反ソ)から南進論(反支英米仏蘭)に転じた。したがってノモンハン事変で反攻に転じ、共産軍を撃退しようとした関東軍諸将多数を退任、左遷、免職に追い込んだでいる。重要なのは、近衛内閣の基本方針に基づき、日本軍中央が日ソ協調路線を敷き、北進論から南進論に転じたことにある。
 4 私の叔父(父の弟)光彌さんは、この戦役で戦死した。その碑が信濃小学校内の片隅に建っている。ただし碑文が削られ、何の・誰の碑か分からなくなっている。