読書日々 1102

◆220806 読書日々 1102  恒例の墓掃除
 お盆が近い。今日、恒例になった夫婦2人での里塚にある墓掃除に行く。6時出発だ。それで、2週続けて忘れ(遅れ)た日記を、少し時間があるので記すことにする。
 1 「時代劇チャンネル」を観ている。このBS、周期があって、もうだいぶ前に、北大路欣也劇場が終了してしまい、ここのところ観たい番組も見終わったのか、触手が伸びない。かわって、またぞろ大村彦次郎『時代小説盛衰記』(筑摩書房 2005)を引っ張り出して、トイレ本にしている。何度めくっても、山本夏彦のエッセイ同様、面白さが消えない。
 司馬、藤沢、池波の作品は、2階の書庫に残してあるが、他の多くの時代小説作品群は、移転(2017)前にほとんど処分した。その渇きが、周期的に襲ってくる。気になっていた関川夏央の『おじさんはなぜ時代小説が好きか』(岩波書店 2006)をアマゾンで注文し、トイレ本にしたところだ。
 関川の本や旅行記の愛読者の1人だが、最も気に入っているのは、旅TV番組だ。たしかこの日記にも記したが、アンデスへの気車旅行フィルム(番組)は、秀逸だった。
 本書の主部を占める、関川の司馬や藤沢周平論は、もうそれだけで立派な日本・日本人論だが、この人団塊の世代で、もうそれだけで、わたし(たち)と読書癖が違うところがさらに面白い。
 関川は、森鴎外・藤沢周平のラインで、時代小説の面白さ、貴重さを尺度している。それはその通りだが、鴎外の「歴史其の儘」をどう評するのか、やはり聴いてみてみたい。
 時代小説について、10冊分近く書いたし、自分でも時代小説(『福沢諭吉の事件簿』言視舎 3冊)を書いたが、やはり物足りない気がしている。でも、これ以上書いたら「病気」の類になるだろう。「病膏肓」か?
 2 お盆といえば、私の父は69で亡くなった。3度目の脳梗塞で、1年間ベッドに寝たきりだったが、わたしが『北方文芸』の編集事務に出ている間にひっそりと亡くなった。「今なくなった」という電話が校正中に入ったとき、69だから「よくぞ生きたな」、と思えたが、その息子のわたしはすでに80を超している。(ここまで書いたとき、6時まぢかになったので中断)。
 今日は涼しく、風か強い。ま、気持ちいいというところか。墓所には車で20分とかからない。まず水を汲みに行く。両手にプラスティックのオケに八分目水を満たし、両手でひさぐと、しなびた両手がブルブルと震える。ま、毎度のことだが、約百メートル余りの路を腰を伸ばして運ぶのが、辛い。特に、最近、ほとんど座仕事だから、足も萎えている。
 ほぼ実労働1時間半、毎年毎年雑になるが、まずまず順調に終わった。今年も灯籠が一つ、転倒している。ま、わたしたちではどうすることの出来ない重さだ。石屋さんに修復を頼まなくてはならない。
 3 帰宅したのが九時半、コンビニで本麒麟を購入。ただし、当然といえばそれまでだが、飲んだものの、ぐんとおなかも減っていたし、喉も渇いていたののに、コマーシャルのようにはおいしくない。サッポロの黒生よりかなり落ちる。値段も違うが、やはり本ビールでなくちゃ。(カバーズを聴きながら、眠くなったので、日記に戻れず。)
 4 25年位前、羅臼に「出前」授業に行った帰り、中標津の野尻先生のお宅に寄り道した。内科の先生で、奥さんが「北方文芸」に寄稿したことがあった縁である。先生が札幌に戻って内科の診療所を大曲で開き、わたしの主治医になってくださってから20年近くなる。
 その中標津で金子三勇士(1989~)のピアノコンサートがあり、それが中標津の風景とともに、NHKで収録され、現在も含めて、何度も聴いている。
 金子の母はハンガリー出身で、その田舎に牛の町中標津がよく似ているという。金子は日本でも続々と現れている若手ピアニストの1人だが、幼児期(6~16歳)から祖母の下(ハンガリー)で育ち、ピアノに親しみ、ハンガリーが生んだフランツ・リスト(1811~86)を尊崇している。もう若手という部類を抜け出ていると思えるが、藤田真央と対極のピアノ奏者のように思える。堅実だが、いいよ。