カテゴリー別アーカイブ: 著書

人物名鑑 古今東西 いま関西(言視社)

『古今東西 今関西』あとがき

1 「関西人は世界人」のモデルを、主として、わたしは三人の関西人から教えられた。今西錦司であり、梅棹忠夫、そして開高健だ。しかも、高校生の最後近く、開高健の小説を読んだばかりに、受験校を阪大に変えたため、札幌圏から関西に流れてくる結果となった。

 といっても、わたしが「関西人」であることを自覚させられたのは、1980年代末の大学闘争で、東西の各大学院生協議会の討論中、わたしが関西弁で相手を辟易させたときではなかったろうか。わたしは、「議論」(論争)に勝ったと思ったが、相手は「奇天烈」なわたしの関西弁に戸惑った結果らしかった。

 いまでは、そんな機会はほとんどなくなったが、静かに議論するとき、わたしからおしとどめようもなく「関西弁」の「本音」が流れ出てくる(ように感じられる)。だが開高は、大きな声の持ち主である。関西風ではない(だろう)。一度だけ、来道した講演で、赤いセータを着た開高を見に行ったことがある。大声で、アマゾン川の水が涸れる、地球は砂漠化する、という環境破壊の現状を告発するものだった。文学者らしからぬ様に思えた。

2 哲学は、文学と同じように、「作者」抜きには存在しえない。わたしが「人名辞典=事典」類を多数書いてきた理由で、わたしの好きなスピノザやD.ヒュームを書く場合、いつも伝記作家になったつもりで書こうとしてきた。

3 そして、山田風太郎『人間最終図鑑』がみごとに示したように、人間のエキスは「死」に現れる。そういえば、わたしも『理想的な死』をはじめとした「人物」論を書いたのもまた同じような趣意からであった。

 日本人で世界標準の最右翼は誰か。福沢諭吉である。その福沢諭吉論を、時代小説スタイル(『福沢諭吉の事件簿』全3巻 言視舎)で書いたことも付記しておきたい。

 最後に、言視舎のみなさん、いつものようにありがとう。とりわけ社主の杉山さん、人物論を出すチャンスをいただき、深甚の謝意を表します。

 2023年11月末日 鷲田小彌太

納得する日本史<古代史篇>(言視社)

「異端」かつ「正道」をゆく

『納得する日本史 〈古代史編〉』(言視舎 20231031 215頁)
 1 「歴史」には「作者」がいる。歴史は「作家」が作るのだ。単数、複数を、有名、無名を問わない。おこがましくも、わたしもその「ひとり」と思ってきた。ただしわたしの場合、中心が「思想」の歴史、特に「哲学」の歴史であったが、これも立派な「歴史」である。(ま、恩師の谷沢永一先生には、「哲学はイデオロギーで、空無じゃないの?」と一蹴されたが。) 

2 わたしは、中・高の歴史「教科書」にさえ、自然と聴き耳を立てずにはおられなかった。正確には、地理と歴史の教科書に、である。もっとも、教えてくれた「先生」の「魅力」(「偏見」)に負っていたと思える。「先生」が歴史の「演出者」〔ディレクター〕であった。 なんだ、教科書など、いつ(年号)、誰(偉人)が、どんな事件(事実)をおこしたのか、の寄せ集め(パンフレット)じゃないか。無味乾燥きわまりない。こう、反論されるかもしれない。でも、「645」(ムシ・ゴヒキ)という「記号」からどんな「物語」を紡ぎ出すかは、あなた(シナリオ・ライター)の腕次第なのだ。 わたしはといえば、後年、『日本書紀』の「大化の改新」のところで、現代語訳ではあったが、その「クーデタ」劇のあまりにも「陰惨」な描写に、「何で、こんなに『リアル』でなくちゃいけないの?」と思うと、眠れなくなったことを、今に憶えている。まるで「劇画」なのだ。 

3 わたしは総じて新しがり屋だ。一冊、「本」を読むたびに、「時代小説」や「漫画」であろうと、ときには漫画にこそ、大きな「刺」激を受けてきた。「軽薄」という誹りを免れえない。たとえば、安彦良和『イエス』や『ナムジ』をはじめとする「神話」の劇画に興奮する。司馬遼太郎の諸作品は、言うに及ばない。 

4 それで、一足飛びにいっておう。 第1、時代の画期を示すと思える、わたしが決定的に影響を受けた諸「作家」(歴史家)の「作品」を基軸にすえ、その「意味」を明らかにする。 第2、大口を叩くようだが、日本「正史」といえるものを獲得するために、日本史を包括的に理解する筋道を示す、「異例の日本史」の一端なりと例示できうれば、幸いだ。ま、大口はこれくらいにしよう。
 〈序〉である。一読、笑覧あれ。

読書原論(言視社)

21世紀の読書=忘れる読書

『読書原論』に寄せて

〈 本書のテーマは「忘れる読書」だ。「読書(内容)は忘れてもいい。」というより、「読書は忘れた方がいい。」というのが主意だ。
 エッ、読書とは「忘却」であり、「消失」だ。「浪費」であり、「ムダだ」、といいたいのか。
 まったくそうではない。「忘れる読書」で「教養」が身につくといいたいからだ。
 たしかに「本を読まないと、教養が身につかない。」とはよくよくいわれてきた。すくなくと一九六〇年代までは、正統派〔オールド〕ファッションだった。
 本書は、ニューファッションの読書術である。「教養」もおのずと形を変える。少数派〔エリート〕の教養から、多数派〔ポピュラー〕の教養へだ。「教養」とは何か、にも随時答えてゆこう。
 ただし、ニューというのは、一九七〇年代から始まる現代の本流〔メインコース〕読書術である。この新しい波にさらされてきたのは、一九七〇年以降に生れた世代で、読む本も変わったが、読み方、接し方も変わった。
 一言でいえば、「暗記」の読書から「忘れる」読書への転換だ。記憶・暗記の時代から、考える・創造の時代転換を背景にもっている。何が、この転換=革新を促〔うなが〕したのか? これにもゆっくり答えよう。
 じゃんじゃん読んで、じゃんじゃん忘れる。これこそ、この時代大転換に相応しい、二一世紀の読書術だ、ひいては仕事術だ、人生を豊か〔リッチ〕にする生き方だ。老後の究極技だ。こう老いぼれのわたしは考える。
 0 「読書」とは?
 最初から、遺憾なことだが、この序章をすっ飛ばしてもいい。むしろ飛ばしてほしい。「すべて最初が難しい。」最後に、できれば途中で、読んでほしい。
 まずは「極論」でゆこう。
 極論は危険である。「ものごと」の「一面」、「一部」、「突端」しか示さず、その他大部分を「故意」に無視するからだ。だが、適切な極論は、ものごとの「中心〔センター〕部」を、「最重要部分」いわゆる「本質〔エッセンス〕」(essence)を指し示すことができる。
 だから、○△を「丸ごと」好きとか、「全部」素敵〔ビューティフル〕というのは、「極」を、したがって最重要部分=本質を見ることのできない人の意見、あるいは見ようとしない憶測、いい加減な推測だ、と思っていい理由になる。
 たとえばだ。「日本人とは何か?」と問われたら、どう答えるか?
 最も単純には、「日本人(Japanese)とは日本語(Japanese)を話す人のことである。」と答えるしかない。日本人と日本語は同語である。ただしここからは難しい。「英語を話す人は英国人か?」というと、そうはいかない。
 歴史的かつ地球規模でいえば、「英語」(English)も、もともとは「日本語」と同じように、「地方語」、極論すれば「方言」にすぎなかった。だが19世紀、「大英帝国」が、世界=五大陸に国旗(ユニオンジャック)を立てる覇権国、パックス・ブリタニカが、生まれた。植民地(インド、アメリカ、オーストラリア、エジプトや南アフリカ等)で「英語」を公用語にする。さらに英語を公用語としたアメリカ(合衆国)が、20世紀に世界の政治経済文化等の覇権を握り、20世紀末にコンピュータ・ネット社会(グローバルワン)を先導した。「英語」(=米語)が「世界標準」の地位を維持・確立した。
 いうまでもないが、ほとんどが日本語を日常語とする日本人と、したがって「日本人=日本語を話す人」のように、英語・アメリカ語を話す人が「アメリカ合衆国人」(American)ではないのだ。……〉

google検索: 読書原論

世界史の読み方(言視社)

認識を刷新する4つの論点

〈あとがき 1980年代末から1990年代初頭にかけて、与えられる媒体〔メディア〕を選ばず、社会主義(の「崩壊」)を、そして社会主義とは何か(=定義)、をテーマに、長短さまざまな論稿を連続して書いた。それに昭和天皇の崩御が重なる。この「流れ」は、2012年まで続く。だが70の退職を機に、ほとんどすべて「時流を追う」をやめた。ま、注文も来なくなったが。

 第1に、やりたい(残した)ことがあったからだ。『日本人の哲学』(全5巻全10部)を、そして『福沢諭吉の事件簿』(全3冊)、さらに『三宅雪嶺  異例の哲学』を書き下ろすことが出来た。すべて言視舎の好意による。幸運だった。これでわたしの「最後の最後」の仕事も終わった、と思えた。だが、である。

 2020年「コロナ禍」をテーマに「非常時の思考に足を掬われるな」(『最後の吉本隆明のマナー』(言視舎 2020 所収冒頭論稿)を書き下ろした。そして、時を接するように、「ロシアのウクライナ侵攻」である。まさしく、三宅雪嶺が述べたように「非常時」(と「非常時の非常時」)の「時代」(シーズン)に入ったかに思える。

 しかし、どんな難問であれ、「解決不能」な問題はない。それがわたしの常に変わらない思考マナー(哲学)だ。それも解答は「歴史」の中に、もっと凝縮していえば、「歴史=書」のなかにある。これを示すのが「読み」(reading)であり、哲学だ。

 本書も、新稿を「枕」に、『日本人の哲学』と『三宅雪嶺』のエキスを再構成する形式を取った。わたしの「旧稿」(だが最新稿)の「読解」である。堪能あれ。〉

google検索: 世界の読み方

哲学的人生相談(言視社)

哲学的人生相談

〈また1冊、偶然(「注文で」)、著作(書いたもの=ミマイ・ライフ)が加わった。書きたかった本だ。

 はじめて新聞(「社会新報」)にコラムを連載したとき、編集長が、新聞の「人生相談」欄を参照せよ、と助言してくれた。しかし、わたしは、自分の人生上のことに関して、父母姉妹はもとより友人知人、ましてや先輩同僚に「相談」することをよしとしてこなかった。もちろん新聞の「人生相談」を参照したことはなかった。なぜか。

 わたしは、わたしが愛読する書物を「人生論」、我が人生相談書として読んで来たからだ。『論語』や『菜の花の沖』、プルタルコス『英雄伝』や山本夏彦『笑わぬでもなし』、……あれもこれもである。鮎川信夫や鮎川哲也、室生犀星や中野重治、あのひともこのひととも「相談」(対話)するのを常としてきた。

 そんな男の「人生相談」書である。一読、わかる人にはわかる。

 ちなみに、日本版「人生相談」書三傑をあげておこう。兼好『徒然草』、世阿弥『花伝書』、そして仁斎『童子問』である。開高健『風に訊け』もあげたいが、この人ペダンチストである。ま、嫌いではないが。〉(20220206)

google検索: 哲学的人生相談