◆230929 読書日々 1612 実力系・福沢諭吉
いちだんと涼しくなった。ただし、気候の話しは、少し以上にくたびれた。
1 〈大王の時代のあと壬申の大乱で混迷する日本に律令制と官僚機構を導入して体系的「国家」を樹立した謎の巨人藤原不比等の生涯を国際視野から解明する。〉と帯に付された、上田正昭(1927~2016)『藤原不比等』(朝日選書 1986)は、今となっては「古典」の趣を持っている。
一つだけいえば、戦後日本歴史学会の通弊であった、左翼「用語」を用いず、そのはんなりした風貌通りの書きっぷりで、あとを進むものにとっては、何か頼りなげに見えた。しかし再読して、不比等論のドン真ん中を貫くその力編ぶりに目を瞠らざるをえなかった。
上田先生とは、雑誌『理念と経営』で「石田梅岩:心を知る、生かす」というテーマで対談相手を仰せつかったことがある。たいそう滋味ある内容で、梅岩にはわたしも少し心を砕いていたおりであったから、内容濃密で、トントンと話は進んだ。談終わり、少しくつろいでいたときではなかったろうか。
突然、柔和な顔で、わたしは折口信夫の弟子で、「恋人」だった、とおっしゃった。話しはそこで停まったが、なんだか楽しそうなご様子だった。先生の亡くなられたのはわたしの誕生日と同じだ。44年、國學院大學専門部に入り折口信夫に師事し、戦後、京大に進まれている。
折口さんの諸著作は、研究ノートを含めてわたしの愛読書の一つで、『源氏物語』をはじめ、「文学」研究の「呼吸」みたいなものを教わってきたように感じている。
まさか、不比等について、上田先生とすでに深い因縁があるようなことを、この本を再読するまでは、思いはかってもみもしなかった。
2 実力系・福沢諭吉(中外新聞連載)
●一身独立、一国独立
関西には、日本という枠組みには収まらないスケールの大きな人がいる。江戸・東京人が、権力のシステムを許容するにせよ拒否するにせよ、国家権力、つまりは日本国家の枠組みを中心にものを考えたり行動したりする度合いが強くなるのはやむをえないであろう。この点、大阪・神戸人は、東京経由ではなしに、直接、日本内外と「交通」(コミュニケーション)するという伝統がある。
福沢諭吉(1834-1901)は、そんな地球人としての関西人を代表する頂点に立つ一人だ。慶應義塾を創設した福沢を関西人というと、奇異に感じる人もいるだろう。しかし、生まれはまさに大阪である。二歳で父が亡くなったため、大分の中津に戻ったが、二〇歳で向学心おさえがたく、大阪の緒方洪庵の適塾に入門した。納めるべき授業料さえない素寒貧だったため、内弟子ならぬ内塾生で、まもなく塾頭になった。
福沢諭吉は、人も知るように、『学問のすゝめ』の冒頭に、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」という人間平等宣言とでもいうべき言葉を記した。しかし、この言葉ならびに『学問のすゝめ』の主意は、諭吉が適塾で学んだ、門地門閥をまったく考慮しない、徹底した自由競争による実力主義を前提にしてのものなのである。昨今の、競争はいや、差別は許せない、あれもこれも同じでなくては駄目だ式の「人権」主義とはおよそ異なった趣旨のものである。
諭吉は、生涯、薩長政権=明治政府の招きに応じず、政権から距離をとり、政権を激しく批判さえした。そして、日本の意識と文化がどれほど西欧から遅れているかを力説した。しかし、諭吉は、西欧に学べ、日本は遅れている、と日本と日本人を叱咤激励したが、大部な諭吉研究書をもつ戦後民主主義のチャンピオンである丸山真男のように、日本と日本人を侮蔑する言辞に終始した反日本論者ではなかった。「一身独立、一国独立」という言葉に、諭吉の全メッセージは集約されているといっていい。
私は、諭吉が適塾で学んだ年頃、大阪の下町の下宿屋で、はじめて『福翁自伝』を読んだ。じつに面白くためになる本だが、いちばん共感したのは、諭吉が直すことのできなかった唯一の悪癖、酒害について綿々とぼやいているところだ。しかし、私からいわせれば、人間どこか抜けているところが最低一つはなければ、周囲もやっかいだし、自分も息苦しくなるのではないだろうか。諭吉が深夜、一人で杯を傾けながら、酒を飲む暇があったらもっと有意義なことができるのに、とぼやきながら、そのぼやき自体を楽しんでいる風情を想像するのは、じつに楽しいのである。
ぼやきは誰にでもある。自分をぼやきの対象にするのもままある。しかし、自分をぼやいて、自ら楽しむというのは、いかにも関西風ではなかろうか。しかも、いかにも堅く、ぼやきから遠かった諭吉がそうするのである。これ、余裕の精神の現れだと思いたい。