読書日々 975

◆200228 読書日々 975
三部作で書いてきた。
 少し気温が下がったのか? 鈍感になっていて、さして気がつかない。昨日は日なたに出るとぽかぽかした。ただし一瞬の「外出」だけども。

 1 長いあいだ書いてきた。それも想像をはるかに超える多くの著作をだ。もう6段の書棚に収まりきれない。
 処女作は①『ヘーゲル「法哲学」研究序論』(新泉社 1975)である。このときから、ずいぶん多くの著作をものしてきたが、わが作、振り返ってみれば、おのずと連作、主として三部作の体をなしている。
 ヘーゲル『法哲学』は、狭義の①「法」と②「道徳」と③「国家」(家族・市民社会・国家)の三部からなる、アダム・スミスの『国富論』(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations 諸国民・国家の富の本性と諸原因の考察)を「原型」(アーキタイプ)とする、マルクス『資本論』の「原型」である。(これはわたしの独想ではない。田村実『ヘーゲルの法律哲学』(1934)から学んだ。)
 わたしの②『マルクス法哲学批判序説』(新評論 1978)は、若きマルクスがヘーゲル法哲学と対峙するサビーニー(歴史法学派の頭目)法哲学の批判的研究である。まだマルクスがマルクスにならない前の哲学境位(環境)研究にとって不可欠のものと思えた。
 そして、③『哲学史の可能性 一つの若きマルクス論』(新泉社 1980)は、マルクスの学位(博士)論文が主として抜き書・摘要する「ノート」に即したスピノザ・ヒューム・ライプニツ(の主著)と(マルクス以前の)マルクスとの対質(尋問・応答)である。と同時に、わたしのスピノザ・ヒューム・ライプニツ研究というか勉強の一仕上げでもあった。
 などといっても何のことやらと思うかも知れない。この「三部」作は、わたしの哲学研究の出発点となり、それをのりこえて進む墓標(tombstone)ともなったものだ。
 2 そして、マルクスの哲学研究にまっすぐ入ってゆく。
 ①『唯物史観の構想』(批評社 1978)②『哲学の構想と現実  マルクスの場合』(白水社 1983)③『イデオロギーの再認』(白水社 1985)の三部作である。マルクスの可能性を最大限に引き延ばしつつ、マルクスの限界値を測定する原理的作業であった。本籍をマルクス主義に置きつつ、マルクス主義を原理的に乗り越えようとする努力だ。
 3 かくして①『昭和思想史60年』(1986)②『吉本隆明論』(1989)③『天皇論』(1990)という三一書房の大部の三部作が続く。マルクス主義を否定しつつマルクス主義の可能性を探るという、自分にとってはかっちりしていたが、他者には分かりにくい道であった。
 これ以降も、大きな主題の著作は、おのずと三部作になった。もっともこれは、プラトン以来の「弁証法」(弁証術の王道)である。自問自答の方策だ。これができなくては、思想にならない。
 ①わたしはわたしだ。②だが、わたしはわたしでない。③にもかかわらず、わたしはわたしだ。
 こういう問答法=道、自己尋問(対質)術ができない人に、しようとしない人に「考える力」はやってこない。そう思える。
 4 「コロナウィルス」程度のことで右往左往するマスコミが拾う言説を見聞していると、本気かしらと思える。ま、マスコミはそうだろうし、それでいいのだろうが。