読書日々 1195 アマルフィからナポリへの道 

◆250502 読書日々 1195 アマルフィからナポリへの道
 ここ数回、この日記の期日や通し番号を間違え続けた。ぼーっとしていたのは事実だが、その誤りに気づきさえもしなかった。なんとしたことか?! それでというわけではないが、「死」を扱った拙旧稿を引き出した。
 1 『脳死論』(三一書房 1988)
 2 『晩節を汚さない生き方』(PHP新書 2010)
 3 『理想の逝き方』(PHP文庫 2012)
 4 『死ぬ力』(講談社現代文庫 2016)
 と4冊もある。生と死は、哲学や倫理学の基本問題の一つだ。わたしにとってもそうだ。本人にとっても、切実な問題だ。それに、私は「野次馬」的にも、個々人の人生に関心がある。
 特に、私の生家の角逐と母の生きざまに9割の反発と1割の魅力(?)を抱いたきた。そんなことをふらふらと想起していたら、心棒が飛んでしまったようになっていた。
 今朝、TVで、ヨーロッパ絶景の道=「アマルフイからナポリへの道」を見るとはなく見ていて、はっと気がついた。どうも緒形拳の「死生」に憑かれていたのじゃないか、ということだ。緒形拳については、「3」で一項をとって述べた。緒方の最後(?)の作品、「帽子」の好演は、心に残っている。自身の「死」を重ね合わせるように演じている。
 私は、つい乱暴な言葉を相手にぶつけ、それで溜飲を下げるような仕儀に及ぶことがある。何度もあった。われながら後悔することがあるものの、いまもやめていない。例えば、ピアニストの藤田真央の「天才」をとくとくと「本人」のまえで述べるタレントの言に似ている、といえばわかるだろうか?
 でも私の「暴言」の「核」は、「核を失った」(ケルン・パー)の言説に対してだ。
 一寸「憑かれた状態」から普通に戻ったように思える。間違いが少なくなりますように。