◆170310 読書日々 820
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5月、三重に行く。「八街」だ。
何年ぶりになるだろう。最後は下の娘が大学を卒業した時、上野の南端、朝日ヶ丘の旧宅を訪ねた時だ。「記念だ、どこか行きたいところはないか?」と聞くと、「角田さんのところと、朝日ヶ丘に」という。角田さんは、大阪在住の唯一の親戚で、上本町に住んでいたが、もう引っ越して誰も居なかった。20年になるか?
8年間三重短大(津市)に世話になった。最初の定職をえてだ。学生時代、歴研に加わり、仲間とともに哲研を作り、学生雑誌『唯物論』を皮切りに短い雑文を発表していたが、本格的に書き出したのは、三重短時代だ。飯島宗享先生(東洋大)の紹介で、同僚となった山田全紀さんの紹介で、1979年、はじめて僻地に訪ねてきたのが平井良成(白水社)さんで、マルクス論の書き下ろし(『哲学の構想と現実』1983)を頼まれた。マルクス死後100年の一端を飾ることが出来た、といういささかの自尊心(?)めいたものがうまれたことを記憶している。三重時代、最後の仕事となった。
その山田さんとやはり同僚の瀬島、尾崎、内村さんが、津に、教え子たちとともに招いてくれた。長いあいだ教師生活を続けてきたが、教師や学生仲間に招かれたのは、唯一の出来事ではなかったろうか?
三重時代で思い出すことはつきない。最大の事件は、独立した書斎=仕事場をもつことができたことだろう。隣町(青山町)に住んでいた佐武先生(家政科)の紹介で、若い船大工の兄弟が鑿を振るってくれた。上(仕事)下(書庫)3坪ずつ、設計は東京で建築事務所を開いていた妹(優子)が腕を振るってくれた。資金は妻が無い袖を振るってくれたが、佐武先生のおかげで、格安の値だった。小さいとはいえ、作り付けの書棚がある、「知の拠点」が出来たのだ。
短大にも図書館があった。書籍はみすぼらしかったが、そこに司書で勤めていた井早さんには、世話になった。何せ、高い本を買えるような給料を貰っていなかった。定職のない時代続けてきた、大阪での非常勤講師や家庭教師を辞めるわけにはゆかない。それでも本を買わなければ仕事が出来ない時代だ。何くれとなく井早さんの手を煩わすことになった。井早さんには、そのお礼ではないが、拙著を送り続けてきた。ただし隠れた伊勢名産の絶品そうめんを1箱、送り続けて貰っている。
その三重の津に、この5月、訪ねるつもりだ。教え子の沼田の手はずで、山本、江崎さん、職員の井早さん等にお目にかかれることになった。嬉しいかぎりだ。少し足を伸ばして、名張の江戸川乱歩研究家、中相作さんのもお会いできるといいな。頼みたいこともある。中さん、松本仁志『菅笠日記の道を往く』(1979)に異例の「解説」(?)を書いていた。まだ20代の中頃のことだ。菅笠日記は宣長の日記で、上野や名張もその往還にとどめられている。
以下、とりとめもないことになる。大阪大学でドイツ語を教えていた鵜川義之助先生が、松阪(松坂)に住んで、豊中の石橋まで長距離通勤されていて、たまたま電車(近鉄)で通う時に出会った。先生は、大学時代のわたしの「蛮勇」を知っていたようだが、問われなかった。わたしが足立卷一『やちまた』(上下 河出書房 1974)を読んだ後で、宣長のことで話が弾んだ。鵜川先生、実は、宣長(小津家)の母親(かつ)の実家、旧村田家(重要文化財? 小津はあの小津安二郎の実家)に住んでいたのだった。文化財は、物置同然で、奥さんと裏のバラックで生活するという変則ぶり。その奥さん、ドイツ語の相良守峰(『大独和辞典』編纂)の娘さんだ。ときに先生の後をついて、松阪の古道具屋等を巡ることがあった。そんなとき、話し好きの先生に聞かされた、福田恆存の話が、いつまでも耳に残っている。大政翼賛会の関連団体で働いていた鵜川先生、軍刀を差した福田さん(東大の先輩)に出会ったとき、こういうところはすぐやめた方がいい、と助言されたそうだ。先生のまわりは「右」といわれる人ばかりだった(ようだ)。
わたしは宣長の実証主義(ぽいところ)がすきで、その宣長の学問を支えたのが母の実家の村田家で、息子の春庭(言語学者 『詞の八街』)が宣長から出た。伊藤仁斎・東涯親子とはまた違う、父子の関係だ。この春庭の、「詞」の八街(やちまた eight streets)にはじめて分け入ったのが、足立さんの大著だ。それに、結婚して初めての旅行が、妻の従兄弟が住む「八街」(千葉)であった。奇縁というべきだろう。