◆170922 読書日々 848
文章はボディであり、簡明なる作戦を要す
厚別、部屋の中にて、じっと座っていると、厚着が恋しい気分になる。そんな毎日だ。このまま秋も深まり、そして冬になっていくのだろうか。「お天気」なのだから、変化があって当然と思うが。そういえば、8/8から街に出ていない。出ないと、出にくくなる。
そうそう、中村嘉人さんの『シニアライフの本音』(言視舎)の短評が、産経新聞(9/17)に出た。言視舎の杉山さんが、コピイをメールで送ってくれた。とてもいい内容のものだ。人生をじたばた生きて、そこに鋭いセンスを感じさせる。これはとても有り難いケースなのだ。中村さん、つねに、次作は、と考えて生きてきた。それで、60歳から30年になる。すごい、すばらしい。
1 『最終版・大学教授になる方法』(言視舎 10月刊)の再校を仕上げ、二松学舎の江藤さんからの注文、「文学部とは何か?」(20枚)を脱稿し、いま海竜社の『40代からの勉強法』の再版(全面書き直し)をやっている。9月は、「理念と経営」の最終回の書評のほかに、もうひとつ、小さな書評が残っている。なんだか、ひっきりなしに仕事をしているようだ。今月に限らないのではないだろうか。
75歳、大きな(と自身では思える)仕事を完成した。「幕は下りた。」と、最終第4巻の「あとがき」に記した。でもカーテンコールではないが、パソコンに向かっている。ずいぶん鮎川哲也のミステリその他を読んだが、余白というか、本土というか、仕事がある。まずいな、という気持ちもあるが、幸運だ、という感じのほうが強い。つまりは、欲望の過剰だ。中村さんやわたしに限らない。死ぬまであきらめが悪い、それが人間の本然(nature)である、というのがわたしの哲学だ。人間が言葉を持つからだが、読んだり書いたりすると、とりわけ言葉を頻繁に操作すると、この哲学が顔を出す。
2 そうそう「操作」(operation)というと「オペ」(手術)だ。PKO(peacekeeping operations)は「平和維持活動」と邦訳されるが、「軍事」(military affairs)作戦だ。軍隊は組織体(body)で、頭部をもつ。下部まで作戦が浸透しないと、よく働かない。言葉も、熟練したオペレーターによって、組織体になる。『史記』に司馬遷が、『花神』に司馬遼太郎が、というようにだ。
「書物」(本)も、組織体だ。作者がいる。ゴーストライターかどうかにかかわらず、盗作でない限り、オーサー(著者)がおり、彼に著作権が生じ、権威がつく。本を書くほどの人は、言葉のプロである、が必要条件だ。だが、プロもさまざまだ。未完成もあれば、完成途上、不完全、等々がある。
私事だが、わたしの場合、見よう見まねというか、カントやヘーゲルの未熟な訳語まじりの模倣というべきか、思い込み過剰で、自分にも分明でない文章(学術論文)らしきものから始まった。(ただし、いま読むと妙に新鮮なのだが。)プロ作家の数歩手前である。それがとにもかくにも、現地点まで来た。最も重要だったのは、つねに「ボディ」を目指したことだ。「全体」があって、「分節」がある。その分節を「主題」(subject)でつなぐ。ま、ヘーゲルの流儀だ。多少は、ヘーゲルを勉強した甲斐があった、というべきだろう。
3 書物をひとつの「ボディ」(「バディ」か?)と見なし、それを読解する、あるいは自分でも書く、そういうトレーニングは、何に関してであれ、重要だ。「構造主義」といわれるのが、まさにボディを分節化してつかむという考え方で、特殊なものではない。
それで、どんなテーマで書く場合も、分節細目=目次(Contents)がすらすらと出るときは、書けたも同然、という気にさせられる。このことは『入門・論文の書き方』(PHP新書)で詳しく書いたが、この本、普通の意味での「入門」(初歩)ではない。編集者がそうしたに過ぎない。論文を書くために、必要にしてかつ十分な「方」(方法=メソッド)を書いたのだ。ウンベルト・エコ『論文作法』よりずっと明快だ(というのが自己判断だ)。作戦は下部に浸透するに、簡明をよしとする。