読書日々 849

◆170929 読書日々 849
『学者商売』は旧新劇?!
 最高16度最低6度、これが今日の厚別の気温表示(予想)だ。室内は19.9度。実際、肌寒い。ご多分に漏れず、北海道生まれのわたしも、寒さに弱い。正確には、動かないので、暖かい部屋でぬくぬくしたい。京大阪(郊外)、それに伊賀の冬は耐えがたかった。
 おきまりの金曜、なにがなくとも「読書日々」だ。ただし、今月のノルマ仕事を片付け、大学教授のゲラ再校を済ますことができれば、明日30日中に、締め切りかなり前の季報唯研の2エッセイ(15枚)を書き・送り、宿題をまとめて終わらせ、10月は空白にしたい。ま、楽勝かも。
 1 海竜社「40代からの‥‥」は、全面書き直しで、書き下ろすより手間暇がかかったように感じる。何せ私癖の「‥である。」の連発もある。社長から電話が来て、一〇月中に出す、といわれた。超高速だ。言視舎「大学教授‥」のほうも10月刊は動かない。これじゃ、仕事のやりすぎじゃないか、と内心思えるが、幸運なことに違いはない。
 2 内田魯庵に『文学者となる法』(1894)があり、野々村一雄に『学者商売』(1960)と『‥その後』(1978)がある。『大学教授になる方法』(1991)を書いたとき、読んだが、ためになったというより、魯庵のは「文士」を、野々村のは「学術者」を標的にしたもので、旧劇に属する。
 新劇がいいというわけではない。ほとんどTV以外では観ることもない。嫌いな役者は、宇野重吉、滝沢修で、なんだ民藝じゃないか。ただし三津田健(文学座)のシラノ・ド・ベルジュラック役には感嘆した。ベテランである。はまり役だ。だが高齢なのに、超絶長ゼリフを息も継がせぬ(気配)で朗々と紡ぎ出す。もちろん新劇のあの嫌みたっぷりな持って回ったセリフ回しなのにだ。のちにTVでも観たが、わたしは一人で静かに観る方が好きだ。
 野々村一雄(1913~98)は、ロシア経済学者で、大阪商大を出て、満鉄嘱託をへて、大阪市経済研究所に滑り込み、都留重人(中学同期)の引きで一橋大教授となった、一筋縄ではいかない学者人生を送った一人だ。ま、旧制から新制へ切り替わる時代の典型的な、マルキストであることに苦しんだ、大学教授だ。その専門書も何冊か読ませてもらったが、リアリストでもあって、納得するところもあった。
 その野々村の第一作は「貧乏物語」だ。しかし、七〇年代に大学に定職を持ったわたしたち世代と比べると、「貧乏殿様」物語だ。やせても枯れても、武士だ。貧乏たらしくない。私自身、貧乏は少しもいとわなかったが、貧乏たらしいのは、我慢ならなかった。やせ我慢か。そんなことはない。貧乏に対処できる工夫ができての学者生活だ。わたしはそう思う。
 3 厚別の自室にいる。2LDKだから、立派なものだ。だが、手元に本がない。自著もほとんどない。半分ほど古本屋が引き抜いていった。厚別に残す本は、段ボール箱に入ったままだ。その他、残された本は、本棚を移動しなければならないので、井上さんの手を煩わせて、10棚分、旧書斎に列をなして積まれている。まるで「役立たず」と宣告され、列をなして繋がれ、ガス室行きを待っている、ユダヤ人収容所の光景を思い起こさずにはいられない。ナチ(国家社会主義)の「労働が自由への道だ」という「看板」のかかった門標はないが、残った本で残った人生を楽しむしかない。それに、本は死なない。殺せない。人間は「本」でできあがっている。どんどん脳内から「文字」が消えていっても、「本」という有形物から、引き出すことができる。ま、気休めだろうが。