読書日々 918

◆190125 読書日々 918
ようやく諭吉の事件簿、動き出した
 1 鮎川哲也推奨の藤雪夫・藤桂子『黒水仙』(講談社 1985)を手にしたが、ようやくというか、とうとうというべきか、『福沢諭吉の事件簿 Ⅲ』が動き出した。1日4枚~8枚のノルマだが、着実に進んでいる。過半の250枚を超えた。ケチなことをいうようだが、ここで一休止したら、頓挫する危険もある。若いときのように、一気呵成というわけにはゆかない。
 それで親子合作のこの作品、詮ないことだが、読み始めでパタット止まってしまった。
 長篇である。藤(1913~84)の出世作の改作であり、娘(1943~)との二冊目の共著である。しかもこの作品の途次、藤は急死し、遺作となった。だが桂子はミステリ作家として独り立ちし、多くの作品を残している。ま、『日本ミステリー事典』(新潮社 2000)によればだが。
 2 わずかに三年前になるか。この日記、パソコンを開き、書く項目1、2、3と決めたら、およそ4枚、1時間以内に書き終わっていた。文字通り朝飯前であったのだ。それがどうだ。わずか数年で3時間はかかるようになった。書くべきものがなくなったのだ、といえばその通りかもしれない。だが実のところ、書いていないから書けなくなる。書く意欲が減退する。これは食欲や性欲と同じだ(ろう)。
 書くのに火がついたのは1981年で、『月刊ナンバーワン』に書評を介した同時代思潮評論(「一読入魂レポート」)を連載しはじめてからだ。無料(実物・飲支給?)であった。毎月10枚前後の評論だから、そんなに楽じゃない。相手は当代の論客である。バッタバッタという気合いで立ち向かった。それをまとめて一冊にしてくれたくれたのが三一書房の林さんで、『書評の同時代史』(1982)である。わたしの論壇(?)デビュー作になった。これを読んで、未見の谷沢永一先生が『潮』の背戸さんに紹介してくれた。書くことに夢中というか、霧中の時代であった。
 しかしわたしの経験則によると、年誌よりは季刊誌、それよりは月刊誌、さらに週刊誌のほうが書きやすい。一論書いたら、次の書く準備が終わっている、というつねに前のめりスタイルが要求されるからだ。それで、翌々83年から、著作数が急増し、わたしの著作目録は年次から月次に変わった。
 3 日清戦争が始まったときの駐朝鮮公使が、駐清公使を兼ね、急遽軍とともに漢城に入った大鳥圭介(1833~1911)である。医家の生まれで、緒方洪庵の適塾をでた、諭吉の先輩だ。
 だがこの人血の気が多い。村田蔵六=大村益次郎と同じように工学・兵学に転じ、歩兵奉行(幕閣クラス)になり、戊辰戦争では主戦派で、江戸を脱して歩兵を引き連れ、各地を転戦、最終の箱館戦争でも生き残り、下獄ののち政府に転じ、開拓使を皮切りに文武を兼ねた官僚の位階を上ってゆく。日清戦争勃発時は、駐清公使で陸軍少将、煮ても焼いても食えない古強者だった。
 公使は、大院君(清派)を使って、政府中核・反日の閔派を追い落とし、朝鮮王や政府を硬軟からめて懐柔し、だれも日本が戦勝に次ぐ戦勝を果たすなどと予想だにしていなかった状況を一変させ、短期でよく清派勢力の力を殺ぐことに成功し、はやばやと任務を解かれた。すでに還暦を過ぎていたこの古老、まるで、幕長戦争における大村の再来と思われる。
 しかし、朝鮮半島の清国勢力を封殺したこのときから、日本政府に新たなさらに大きな困難が襲いかかる。朝鮮「独立」の形である。
 諭吉、それに伊藤首相は、朝鮮の領土を侵犯してはならない、という意見だった(と思われる)。だがこれは、時事新報社においても、ましてや「戦勝」に酔う日本政府、議会、軍、そして国民各層においても、極少数派であった。清に変わって日本が朝鮮を領導するのが当然という世論だ。実際、朝鮮内に、独立・自立する力はなかった。富国強兵をめざす政治経済文化の力だ。自尊は過大にあるが自立力の弱小・欠如である。