読書日々 835

◆170623 読書日々 835
明知鉄道:恵那→岩村→明智
 拙著『日本人の哲学 名言100』(言視舎 2017.6.30)の見本刷りが出た。定年退職(70歳)以来5年余、『日本人の哲学』5冊を含めて21冊目だ。生産力がぐんと落ちたわけではないか?
 1 道新の「本の森」欄の書評(沓沢久里『通天閣が消えた町』)掲載が1週間早まって25日になった(そうだ)。26日夜、出版記念会がある。タイミングがいい。出版記念会に出るのは何年ぶりだろう。
 2 中相作『涙香、「新青年」、乱歩』(名張人外境 2019.5.29 92+4)を精読した。中さんは名張在住の乱歩研究家である。この本、「解説」ではなくて、見事な「解読」(reading)になっている。批判的論究だ。乱歩は、その初期に創作能力を使いはたし、戦後は、評論家・書誌学者・探偵小説啓蒙家・編集者になった、とはよくいわれる。だが、中は、乱歩の創作能力は、その出発から、「絵探し」を本領としており、「本格派」=「探偵小説の中でも、もっとも探偵小説らしい探偵小説」(横溝正史)とは異質のものだった、とするのだ。作家(創作者)と評論家(哲学者)が同在する人は少ない。伊藤整(『氾濫』と『谷崎潤一郎の文学』)のように、ナバコフ(『ロリータ』と『ロシア文学講義』)がそうであったようにだ。ただし、中は、ミステリを本格に限定することにはもちろん反対だ(ろう)。文学は、なにをどう書いてもいいのだ。紫式部は『源氏物語』を時代小説として書いた、という読みも当然あっていい。というより、それこそ当時の物語(ロマンス)の主流をいっている。
 マルクスの『資本論』は古典経済学の「解読」をベースにしているのであり、その独特の「読み」(リーディング)こそマルクスの「哲学」である、としたのがルイ・アルチュセエールだ。柄谷行人、今村仁司、高橋洋児、それにわたしの「哲学」でもあった。吉本隆明や廣松渉の流儀(マナー)だ。このマナーはけっして古くならない。田中美知太郎の『プラトン』が、プラトンの哲学も人生もその著作のなかにある、それを明らかにするにはテキストクリティーク(著作の読解)以外にはないのだ、ということを示した。
 乱歩の「悲劇」は、本格ミステリを書けないのに、横溝の作品をミステリの本格のモデルとみなし、そのミステリ観を掲げて、探偵小説の「王」(桂冠)として振る舞ったことにある。これが中の見立てだ。見事な読みである(などといったら失礼になるか)。新作が楽しみだ。
 3 鮎川哲也の今週は、『死びとの座』と『鍵穴のない扉』、『宛先不明』である。
 『宛先不明』(講談社文庫)の「最後」のアリバイトリックの肝心要を、「読めた」(と思う)。これは鮎川を読んできて初めての「事件」だ。ただしこの作品、ミステリのTVドラマと同じように、奥行きがない。登場人物が「典型」しすぎて、まいる。TVに登場する大学教授、医者、検事、……その妻たちのと同じようにだ。まるで黒澤作品に出てくる人物のようにだ。対して小津作品は、何から何まで紋切り型のように撮っているように見えるが、奥行きがある。さまざまな読みを許すゆえんだ。
 鮎川最後の長編『死びとの座』は「そっくりさん」タレントが焦点になる。アリバイづくりの苦心やポイントはわかるが、「週刊新潮」連載のためか、場面展開が速すぎる。この作品にもたくさんの地名が出てくる。それとつきあうのはとても楽しい。とくに印象に残ったのは、岐阜の「岩村」だ。信長の側近森蘭丸が城主だったこともある、名門の藩で、幕末、幕府儒学の総帥、林述斎(岩村藩主松平家三男、林家に養子=8代、鳥居耀蔵は3男)、佐藤一斎(述斎学友→弟子→昌平校儒官=学長、『言志四録』)となじみが深い。江戸哲学を語るときの要の場所だ。
 『鍵穴のない扉』は鮎川の数少ない「密室もの」のようにみえる。しかしそう書かれているに過ぎない。『死びとの座』と同じように、舞台が芸能界だ。ま、こちらの方が人物描写は行き届いている。アリバイ崩しの種はなかなかで、きちっと書かれている。そこのところは、わたしでもわかった。
 あと数冊で長編は読み終える。もう一度、『ペトロフ事件』『黒いトランク』を読み直したいね。
 4 6/26(出版記念会)、6/27~29(巡礼仲間の来札)、7/2(講演会)と、街に出る機会が続く。肝臓のほうはもつかな?