読書日々 1103

◆220812 読書日々 1103  山田風太郎
 真夏なのに、涼しい風が吹く日が続いている。気分はいいが、TVとご対面の独酌である。総量はたいしたことないが(?)ついつい飲み過ぎている。
 山田風太郎は、アームチェアーに身を横たえながら、チュウブ管を通してサケを飲んで、往生した。わたしに、かなりというか、総身を起てるようにして書いたが、評判にならなかった本に『理想の逝き方』(PHP文庫 2011)がある。
《3・1 しがみつかない逝き方
 3・1・1 山田風太郎[作家]1922.1.4~2001.7.28(76歳)――「ぜんぶ余録」という晩年
 山田風太郎は、医者(医科大学卒業)をみずから不適とみなし、作家になった変わり種である。ミステリーを十年書いたが諦め、「忍法帖」で一大忍者ブームを引き起こし、伝記時代小説とりわけ明治ものに独創的な歴史・人間観察眼をもった豊饒の作品群を残し、『戦中派不戦日記』で独特の時代感覚を表明し、『人間臨終図巻』で九百二十三人の実在した人物たちの臨終「実相」を簡潔赤裸々に描き、独立かつ真摯というべきか、諧謔かつ横着というべきか、独特の作家人生を生きぬいた。
 また自身の「往生際」も、かなり長かったとはいえ、独特のものであった。ノンシャラン(なりゆきまかせ)とオネスト(真摯)が入り交じった、独立不羈としかいいようのない不思議な精神の発露に思える。その晩年を彼の『人間最終図巻』に模して書いてみよう。
 山田は生来病弱でとくに青年時には精神に「虚無」を抱え込んでいた。作家となった理由だ。七十歳を超えるころから糖尿病に加えてパーキンソン病の症候を示すようになり、道を歩いていて理由なく転ぶようになる。朝日新聞で九四年十月からはじまったエッセイ「あと千回の晩飯」は、翌九五年二月から十月まで休載になったのは、四ヶ月間、糖尿病とパーキンソン病症候群で入院治療を受けたからだ。
 千回の連載を終えてすぐ、九六年九月二十六日、白内障の手術を受ける。白内障のほうは回復したが、眼底出血のため文字が見えにくくなり、その後の執筆を断念せざるをえなくなった。この『あと千回の晩飯』(朝日新聞社 一九九七年)が生前最後の「自筆」作品になる。
 しかしその後、余録とでもいうべき、インタビュー『コレデオシマイ』(九六年)『いまわの際に言うべき一大事はなし。』(九八年)『ぜんぶ余録』(〇一年 三冊とも角川春樹事務所)をだし、自分の「死生」をあますところなく書き・話し残して、二〇〇一年七月二十八日、肺炎のため亡くなった。実質的な「遺書」となった、「あと千回の晩飯」の最終回でこう記す(夫人の口述筆記)。
〈私は七十四歳という望外の長寿を得て、はたして何らかのメリットがあったのだろうか。世の中を見ると、みんな長生きするのに懸命なようだから、やはり長生きすればメリットがあるのだろう。
 私自身は老来なにかと不便なことが多く、長生きに余得があるとは思えないが、それにつけてもここ十年程前から感じていることがある。……〔美人が減った、いまわの際に残すべき一言半句をもたない、病気のこと、等々ひとしきり語ったあと〕……
 いろいろ死に方を考えてみたが、どうもうまくゆきそうもない。わたしとしては滑稽な死に方が望ましいのだが、そうは問屋がおろしそうもない。
 ただ、死だけは中途半端ですむことではない。死こそは絶対である。生きているうちは人間はあらゆることを、しゃべりにしゃべるのだが、いったん死んだとなると徹底的に黙る、未来永劫に黙る。
 あるいは死ぬこと自体、人間最大の滑稽事かもしれない。〉(九六年八月十六日)
 こういってなお、「僕はアルツハイマーならぬ、アル中ハイマーだ」などと諧謔に満ちた言葉を発し、およそ五年一八〇〇回弱の晩飯を食って亡くなった。
 *ただし晩飯は並べるが食わずという日もあっただろうし、整形外科への通院治療となかなか忙しく、最後は立ちあがることも出来なかったようだが、外見上は悠々自適に思えた。》
 晩年は、各人各様のごとく見えるが、どこか似ている。「勘定」が「釣り合って」いるからだろう。