◆220923 読書日々 1109 井伏さんは「天才」だ
またいやな季節に入りかけている。じっとしていると、部屋の中でも暖房が欲しくなる。その上、乾燥してくる。これがことのほかわたしには堪える。それに、直接わたしには関係ないが、週末になると、連休が続いている。とはいえ、たんたんと日時が過ぎていく。結構じゃないか、といえる。
1 ピーター・ドラッカーが、遺著とでもいえるべきもので、日本人の定年は、若年労働者が減じ、就業年齢が確実に、20年間で、75歳まで上がると予測した(『ドラッカーの遺言』講談社 2006 死の前年2005年インタビューで)。ただし、日本が競争相手の中国に「対抗」する経済力を維持するためには、さらに、年間50万人の移民を受け入れなければならないと記した。20年間で1000万人だ。
コロナの3年間で多少スピードは落ちるものの、現実は、ほぼ予測通りの労働人口年令の推移ではなかろうか。この現実を受け入れて対処するのか、否かが求められているので、わたしには別な選択肢はないと思われる。むしろ、中国(共産党の独裁経営)の方は、ロシアのウクライナ侵攻もあって、一路一帯路線が途絶し、ヨーロッパとの関係でおおきなダメージをくらい、ゼロ・コロナ対策の失敗とあいまって、その成長戦略にブレーキがかかっている。
ただし、日本でも、3年にわたるコロナ禍とも相まって、外国人労働者(研修生・留学生等)の流入は、マイナスに減じている。この影響は正否あわせてどうなのかの分析は未見だ。
2 井伏鱒二(1898~1993)は古い作家だが、開高健の釣りの師匠でもある。井伏には『川釣り』(岩波新書 1951)の名エッセイがあるが、教科書にも出てきた短編「山椒魚」はロシアの諷刺作家シチェドリンの「賢明なスナムグリ」を「種本」とする「翻訳」である。
猪瀬直樹の長編評伝『ピカレスク』は、体裁は太宰治伝で、太宰は「ピカレスク」と解してもかまわないが、「本物のピカレスク」は井伏鱒二(1898~1993年)である、と告発する衝撃の書だ。
ただし、焦点は井伏という「人物」がピカレスクであるかどうかではない。その作品のつくりかた、書き方がピカレスクであるということで、作家の「資格」こそを問うている。
太宰本人が、作品のテーマや材をえるために、女のフアンに「愛」を仕掛けて、女に日記を書かせ、それを借り受けて『斜陽』等を書いた。女を心中に誘い、「自殺幇助罪」という他ないやり方で、相手を死に至らしめ、それを何度も作品の要の部分で描いたのだ。ピカレスクとよばれるにふさわしい人間の作法だといっていい。しかし太宰の作品は、いずれも「作り替え」であり、「創作」である。つまりは純然たるフィクションだ。
3 対して、井伏の作品は、直木賞を受賞した『ジョン万次郎漂流記』は「分量の七割は同一」(写し)だ。この井伏が、太宰の兄(貴族院議員)に頼まれ、太宰の在東京「後見人」の役を背負わされた、太宰の「文壇上の先輩」であり、人生上の「恩人」とでもいうべき存在である。
戦後、『斜陽』によって文名があがり、『井伏鱒二選集』の解説をいやいやながら引き受けさせられた太宰が、第二巻に、井伏作「青ヶ島大概記」の清書を手伝ったくだりを記し、「私はそれを一字一字清書しながら、天才を実感した。私はこれまでの生涯に於いて、日本の作家に天才を実感させられたのは、あとにも先にも、たったこの一度だけであった」と書いたのである。
驚いたのは井伏の方だろう。「青ヶ島大略記」(『中央公論』1934年3月号)は評判にならなかった。しかも文語体で、読みにくい。なぜ文語体だったのかといえば、古い資料を「引き写し」たからで、この引き写しの清書を手伝ったのが太宰であった。
選集解説で、文名上がった太宰に「天才」と銘打たれなかったなら、井伏の作品は注目されず、引き写しつまり「盗用」は注目もされず、ばれもしなかった(に違いない)。
さらに『黒い雨』は『新潮』に連載された、井伏の代表作中の代表作だけでなく、戦後文学の最高傑作のひとつ、世界で唯一の被爆国たる日本の良心を代表する作品である、という評価を受けている。
ところが、この作品を、井伏は生前最後の『井伏鱒二自選全集』(全12巻補巻1)に入れたくないといいだした。「青ヶ島大略記』と同じ事情があったからだ。第6巻の井伏「覚え書き」にある。
「この作品は小説ではなくてドキュメントである。閑間〔しずま〕重松の被爆体験、閑間夫人の戦時中の食料雑記、並びに岩竹博医師の被爆日記、岩竹夫人の看護日記、複数被爆者の体験談、家屋疎開勤労奉仕隊数人の体験談、および各人の解説によって書いた」と。
4 その井伏『荻窪風土記』(新潮社19721105)をいま手にしている。何を言おう、私は井伏の愛読者である。森繁久彌は嫌いだが、東宝のドル箱、井伏原作の「駅前」シリーズはずっと見ていた。