読書日々 1139

◆230421 読書日々 1139 「ケチ」な生活
 暖かい。
 1 生来(生れながらというより、気がついたら、ということだが)、「ケチ」である。これは「商家」に生まれ、育ったことと関係する。「商売」は(かなり)大きなカネをあつかうが、それはもとより「自分の金」ではなく、金庫の中にあるのは「仮=借」金である。その勘定・案配が難しい。
 10歳くらいのころではなかったろうか。父(長男)が祖父の家=「鷲田商店」(酒・塩・燃料等の専売・雑貨店)から離れ、「米」専売の「鷲田米穀店」になった。村(厚別)で唯一の米屋だったが、もう戦後の食糧難も終わっていた。その「米屋」の主業は、「精米」と「販売」で、父は働き盛りであったが、子供が5人(2姉2妹1男)だったので、「食べる」には困らなかったものの、家計費を切り詰めざるを得ず、母はその頃は珍しく「外」で働いて(現金を得て)いた。いまでいうアルバイトであり、留守がちだったので、家事は「長姉」が仕切っていた。
 12月大晦日(家中の手をかき集めてやる最後の仕事=「年越しそば・うどん」の販売)が終わると、父は店の奥に積み上げられた米俵を手で数えながら、これが今年の「売り上げ」(実収)だと、恥ずかしげ(=誇らしげ)にいうのを恒例としていた。
 2 商家=小売店の収入は、毎月のサラリー(定収)ではなく、一年間の「実収」で決まる。一年~数年の実収を元手(原資)にして、買い(仕入れ)・売り(販売)を行ない、売り残ったもの(米俵=現物)が「実収」というのが、父=米穀商の特性であった。
 わたしがケチなのは、常(にとはいわないが)、父母の習性にならって、1年分の生活費の「蓄え」(わたしにとっては安定した生活費)を常に心がけて、1960~70年の独身時代を過ごしたことにある。だから喫煙も飲酒もし(でき)なかった。でも、一年分の(を越える)生活費が常にあった。アルバイトもしたが、しなければ生活できないというのは、大学院に入り、研究者になろうという決断をしたときからだった。それでも、授業料減免、奨学金支給の恩典付だった。この特典は、課税対象の「収入額」が低い、小売店経営の父のおかげ(恩典)によるものだった。
 わたしと対照的だったのは、末妹の大学時代の生活スタイルで、仕送りがあったら、すぐに大半を使い果たすというものであった。
 3 わたしが、アルバイトなしに通常の家族生活を送るだけの収入を得たのは、1983年、札幌大学に赴任したときだった。もっとも、1970年に結婚してから41歳まで、75年に市立短大に定職を得たのちも単身者並の給与しかもらえなかったので(といっても、翌年の給与は約束されてはいたので、妻には「安心」されてはいたが)、月・水・金・土と、朝6時の始発に乗り、夜12時、終電で戻るという、非常勤講師、家庭教師を続けた。ただし、夏、春と、実質およそ各2月の休暇があった。それに通勤時間(およそ4~5時間)は「読書」に費やせたし、わたしの「研究生活」専一期間であった。この上ない贅沢時間で、休暇中、多くは、家族を実家に帰って貰い、ほとんど外出なしの一人の時間を「満喫」した。
 費用にも、時間にも、ケチケチと生きる、それがわたしのスタイルだった。それが終わったのは、やはり『大学教授になる方法』(1991年)がベストセラーになってからで、「書く仕事」がぐんぐん増え、年平均10冊分書く生活が本格化してからで、暇があれば「ススキノ」にいるというようになった。でも「ケチ」は直らなかった。稼いでから、飲んだ。飲むことを許して貰った。
 4 1985年父が、20年遅れて2004年母が亡くなった。2012年定年退職し、書こうとした本、書ければいいなと思えた本も出すことが出来た。これで終わり、と何度思えたか。でも、キイボードを睨み、ワープロを叩き、画面を転換している。ケチは変わらない。でも、これ以上ない贅沢な生活をしている。常に、「個室」という書斎を持ってきた。たとえ2畳から30畳の書斎へと変遷しても、わたしの閉域である。幸運であった。曽祖父、祖父、父たちの世代では味わうことのできなかったケチだが贅沢なライフである。