◆141017 読書日々 694
せめて「永世中立」と「国民皆兵」くらいをめざしては
快晴の秋日和が続いたが、今日は曇天。でも最上の仕事日かな。
「地方創成」などという。植木等じゃないが、「気楽な稼業ときたもんだ」ではないだろうか。地方が元気でないのは、地方が気楽だからじゃないのか。これが田舎に生まれ、大阪という地方に20数年間住み、過疎地に40年間よろしくやってきた、わたしの率直な感想だ。
政治学者を自認しているのに、「地方主権」国家などという、訳のわからないことをいう人もいる。少なくない。主権は国家にある。「主権」は、国民や天皇を「超越」している。だから国家なのだ。もちろん明治国家の主権も国家にある。天皇は成文憲法からも、伝統憲法(国体)からも、制限されている。だから絶対超越権力(power)の国家が自由に暴れ回らないために、十重二十重、雁字搦めに縛っておく必要があるのだ。その注連縄が「憲法」というヤツで、もちろん成文化されないものをも含む。日本の「憲法」を戦後成立した「日本国憲法」だけに限定できるのは、日本の成り立ち・伝統を無視できる非日本人だけだ。
もちろん、憲法は、国家権力を認めないあるいは反旗を翻す非日本人や反日本人に、日本社会で存在することを許す。だが憲法は国家権力を縛ることで、国民を縛る。日本人が国家を縛ることで、自縄自縛するのだ。もちろん自縄自縛できない社会は、まともな国家を形成できない。危ない半国家だ。
国民や企業や個人が、手前勝手なことをやり過ぎると、自縄自縛の度が強くなる。当たり前じゃないか。警察だって、暴力団だって、家計を管理できない主婦だって、変わりはないのだ。
残念ながらというべきか、当然というべきか、まだ国家を越える権力は存在しない。国連は、自縄自縛の力を持たない。柔らかくいえば自己管理能力である。企業にないし、強そうな名前の「ジャイアンツ」(プロ野球)にだってない。暗黙のうちに「国家」があるから、「人類」があり、国連(国家の連合)があり、ヤンキースだってジャイアンツだって存在してゆけるのだ。
だからといってなにも国家に最敬礼する必要はない。大いに批判し、ときに反旗を翻し、反省を強いたり後悔をさせたりすればいい。当然カウンターパンチを食らうことだってある。無傷でいるわけにはゆかない。警察や裁判所の目を逃れても、リンチ(私刑)にあう場合だってある。ジャーナリストが「言論の自由」を振るっているのに、「反論の自由」を封じると、しっぺ返しを食らう。はじめて言論の自由の恐ろしさを理解させられる。「言論の自由」は国家権力を縛ることで、権力に保護されて成り立っているのだ。
いま書いているカール・ヒルティはスイス生まれで、福沢諭吉とほぼ同年配だ。ナポレオン(フランス)とメッテルニヒ(プロシア)に保護された「永世中立」国から、自立を果たそうと苦闘したスイス連邦国家時代を生きた法律家、大学教授、国会議員、著述家である。民主独立と永世中立には「国民皆兵」が必要だということを理解し、自らも陸軍軍事裁判所判事をながくつとめた、「永久平和論」者であった。平和と戦争をワンセットで考えることができた。当然、「非武装中立」がどんな現実のもとで可能なのかを理解していた。ナポレオンやメッテルニヒという軍事大国の「属州」においてだ。
日本の名前だけの「非武装中立」だって、アメリカの属州のもとでのみ可能だったのだ。だから唯々諾々とアメリカ追従でいい、などと思う必要はない。だがその軍事従属を知りながら、せめて軍事均衡くらいまでも進もうとしない、国家を縛る力のない非力を自覚する必要はあるのでは。