◆141010 読書日々 693
ポアロ最期の事件、スーシエの「カーテン」を見た。できがよかった。
ポアロの最終登場作品「カーテン」(10/6 NHKBS3)の放送日を間違えていた。10/6は『理念と経営』の書物周遊(4000字)を終えたあと、すすきのに出たので、10/7に録画で見た。原作(活字)よりも見応えあった。スーシエ=ポアロの最期を飾るにふさわしかった。
かつてカーテンを読んだときも、今回再読したときも、舞台となった「高級下宿(ゲストハウス)」のイメージが、わたしの場合(だけなのか?)貧弱で、TVの一見して「居城」のような造りに圧倒された。もっとも、どこもかしこも古くて、すみずみまで手がはいっていない、古屋敷に過ぎないが。でも日本建築と根本的に違うのは、「ダイニング・ルーム」(正餐室)である。登場人物が一堂に会して飲みかつ食べながら会話をする、「殺人」の雰囲気を醸し出し、動機のヒントを密かにはめ込んである必須の「空間」である。
「世界の名探偵コレクション」(10冊 集英社文庫)がある。便利だ。ポアロとミス・マープル集をアマゾンで購入し、楽しんだ。ところが、ミステリの書棚に2冊ともあった。クリスティの長編は、そういえばほとんど読んでいない。というか確かに『そして誰もいなくなった』や『スタイルズ荘の怪事件』などは読んだはずだし、ざっと見渡しても5~6冊の文庫本は見つかる。ただ、読んだ記憶が残っていない。物忘れが激しいということもあるが、最大の理由は「映像」で見たことにあるだろう。映画やTVドラマで見たものが、より強く記憶に残って、活字のイメージを消してしまったということだ。
この20年、家庭用の映像記憶媒体がVHS、DVHS、DVDと変わってきた。パソコンではもう四角のフロッピーは消え、デスク(円盤)も消えつつある。「進化」だから文句はいえないが、いつまでも・だれでも・どこでも「再読」可能な活字本と違うところだ。ま、視力が落ちたわたしには、デジタル活字で読む方がずっと楽だが。
世界の探偵シリーズの解説を解説者が、「スチェット」と書いている。これはポアロを「ポアロット」とよぶのと同じ種類の間違いだ。デービッド・スーシエ(David Suchet、1946~)で、高名な演劇人でもあるのだから、かなり失礼なことだ。
『入門・論文の書き方』(PHP新書 1999)の改訂版を言視社の杉山さんが出してくれることになった。ゲラ刷りが出た。2014年バージョンである。この本は、わたしの新書では、唯一売れたといっていい。確か8刷りまでいったのではないだろうか。といっても、4万部までは届かなかった。だが、なんにせよ、改訂・再版されることは物書きにとって最大の喜びである。新しい読者を獲得できるからだ。(わずか?だが印税もはいる。)
拙著にも、他に再版してほしいものは少なくない。ただしマーケットの関係がある。売れなければ出版社に迷惑をかける。著者としては、売れなくても出るだけでいい、ということもできるが、出版社があって、編集者がいて、著者と作品がある。売れっ子作品であるか、自費出版作品であるかに関わりなく、自由市場下ではこれが原則である。
40年間書いてきて、世話になった多くの出版社、編集者と関係がなくなったが、関係が薄くなり切れるきっかけは、他の出版社、編集者とつながりをもったからだった。ほとんどは「注文」をもって、訪問されたからであった。もちろん、背戸さんや阿達さんのように、社や部署が変わっても、35年、20年以上も書くことでつながりをもっている編集者は、希にだがいる。だが本当に希なのだ。
今年は3冊書き下ろした。1冊は、まだ出る場所を見いだしていないし、もう1冊は書いている途中である。50~60代なら、ちゃっちゃっと仕上げ、ばんばんと出ただろうが、いまはそれはない。万事にスローになったのは事実だが、むしろ、あれもこれもと気が焦って仕方がないのだ。何せ、すでに仕上がったも同然の作品が、ハードディスクに陽の目を見ずに10冊以上収まっている。