読書日々 974

◆200221 読書日々 974
中澤「最新作」の「重奏的非決定」
 わたしがいま使っている仕事机は、引っ越しの2年前から、かつて義母のいえにあった、そして長く自宅で使ってきたテーブル(食卓)を転用している。(もっともわたしといえば、一人でTVを前に晩酌していたが、)古いが、引き出しも付いていないシンプルなもので、わたしにはあっている。以前の仕事机(集合材)は作り付けのもので、長沼(旧宅)でほこりが溜ったままだ(ろう)。
 ただまずいのは、部屋が暖まり、早朝にはピンと伸びていた盤上がかすかに歪むのか、キイを叩くとカタカタという音がすることだ。これには手がない。だからというわけではないが、夜はよほどのことがないかぎり、仕事はない。
 2月も残り少なくなった。たんたんと日時が過ぎていく(ようだ)。いまは、20数年前に北海道読書新聞(Web)で連載した「読書日記」(130枚)を整理し、続いて、010509からはじめた(月1)この「読書日々」を整理している。こちらは20年にわたる連作(週1)で長いだけは長い、なかなか時間が掛かるが、かまうことはない。できるところまで整理を進め、これが終われば、2012年まである「著作目録」の整理と校正を直近まで進めるつもりだ。どちらも「読書」とあるが、「仕事」日記でもある。
 1 中澤千磨夫『小津の汽車が走るとき』(言視舎 20190930)を「再読」(?)している。ただし今回も厠上でだが。
 この本、現代文学「研究」の常則、「細部を読み解く」法の模範とみるが、フイルム・脚本・研究書それに著者の個人史(探訪)等々を、「重奏的非決定」(吉本隆明)さながらに、ひた押しに押してゆく。わたしのような「思想」の断片を貼り合わせる大鉈技法とは対極の、蜘蛛の糸の絡み合いの、それに著者も(読者も)その糸に絡め取られてもいい(ほうがいい)と思える、面白さだ。「読解」に専一的な道はないということだ。「汽車」はその象徴で、わたしがローカル線に乗るとき、眠れなくなるのは、否、睡ったがごとくなるのはそのためだ。
 それにつけくわえれば、小津に打ち込んでいる著者ではあっても、いつどこで(書くのを)打ち切ってもいい(読者にとってもいつでも途中下車可能な)熱・熟度で語られていることだ。つまりは「金太郎飴」ではないということである。
 2 「読解の技術」を書き終わり、送稿しほっとして一冊、今野敏『隠蔽捜査8 晴明』(新潮社 20200120)を読む。鮎川哲也を読んでしまったあとでは、「隠蔽捜査」は面白いものの、やはり通り一遍で、あっというまに読めてしまう。主人公竜崎伸也(警視長・神奈川県警刑事部長に転じた)に都合のいいように筋書きが案配されている。そういう箇所がよほど目についてきた。仕方がないことだが、蘇ってほしい。
 3 ところで、「読解の技法」のゲラが明日でると杉山さん(言視舎)からメールが来た。速い。このスピード感、思い起こすことがある。
 送稿して出版まで時間が短ければ短いほど「売れる」といわれた時代があった。1990年代だ。
 校正に時間をかけ、誤植や誤記がないように細心の注意を払う必要がある。これと矛盾するじゃないか。こういわれるだろう。その通りだが、編集者の臭覚がものをいう時代だった。でもね、「本」は売れない。それが時代の趨勢(トレンド)だ。こういわれると、著者は頭を垂れるしかない。でもね、「売れる本がいい本だ」とは、著者はいいかねる。出るだけましか? だが、これはいえない。いいかねる。
 版元も著者も辛いところだ。でも「本」は人間だ、が今回の本のテーマでもある。必ず読んでくれる人が現れる。「人間」なのだ。いなければ子どもでも孫でもいい。こう思えなくては、書き続けることはできない。