読書日々 973

◆200214 読書日々 973
花森も小津も。
 積もった雪があっというまに薄くなった。昨日、ピチャピチャとアスファルトの上を歩いて、コンビニにピースを買いに行った。
 1 開高健(1930~89)はわたしよりちょうど一世代前の人で、谷沢永一先生とともに、わたしが最も傾倒した物書きである。快作『日本三文オペラ』(1959)は雑誌連載中に読み、東京でも京都でもなく、大阪に行こうと決めた理由の一つになった。その著作は隅から隅まで読もうとしたし、体つきもまねようと努力(?)したことがある。でも狸小路をたどるのに休憩を挟まなければならなくなったとき、わたしの開高真似は終わった。
 その開高の生誕90年ということで、もし畏友背戸逸夫(編集者)が生きていたら、杯を目の上に上げていただろう。そういえば、わたしも開高について、優に1冊分になるほど書いてきたはずだ。
 三部作の『花終わる闇』(未完)だけは読み通すことができなかった。どうしても『耳の物語』のバリエーションに写るのだ。その『耳』も快作には違いないが、その「意図」するところに阻まれて、小説の神様がついに作者に降りてこなかったのでは、と思えてならない。
 2 開高や谷沢が生れ育った時代は、いまでいうところの「バブル」期というか「余裕」の時代で、豊かな社会に向かっているという漠然とした確信が国民大衆のなかにみなぎっていた時代だ。
 この時代に頭角を現した人たちは、若くしていい仕事をした。
 花森安治(1911~78)がそうだった。「贅沢は敵だ」(大政翼賛会)のキャッチコピーは花森の手になるといわれたが、戦後は「一銭五厘の旗」を掲げて、やはり「贅沢は敵だ」まがいのキャッチコピーを書いた。『暮しの手帖』の編集長で、独裁者であった。もちろん、わたしは花森を天才と断じる。
 小津安二郎(1903~63)も、中澤千磨夫『小津安二郎 生きる哀しみ』(PHP新書)、『精読 小津安二郎 死の影の下に』『続・精読 小津の汽車が走るとき』(ともに言視舎)を精読すると、30年代、小津はすでにして小津だった、ということになる。映像の天才詩人だ。
 3 開高や谷沢の世代の「豊饒」さについて、義父の学友・藤野順(元朝日新聞)さんの紹介で、朝日新聞に原稿を送った。が、「普遍的ではない」という理由で「没」になる。1982年のことで、書評集『矩形の鏡』(青弓社)の冒頭に収めた「一つの三〇年代論」である。
 この世代に比べて、戦間・敗戦直後に生れた(わたしたち)世代は、栄養も乏しかったが素養という点でも素寒貧であった。何かギスギスしている。その「毒舌」によって蛇蝎のごとく嫌われた谷沢先生は、「鷲田君、もっと穏やかに、余裕をもって論じたほうが……」とニコニコ顔と優しい言葉でたしなめてくれた。一度ならずだ。
 その上まずかったのは、素寒貧なのに精神的飢餓感に乏しかったことだ。「豊饒」を味読しなかったからに違いない。わたしにはそう思える。
 4 『知的読解の技術』(仮題 240枚)がようよう仕上がった。ひさしぶりの注文原稿だ。多少は根をつめて書くことができた。さてどうなるやら。
 でも書くことは、どんなコンディションの下にあっても、続けていなければ、脳力ばかりでなく体力減退を招く。そう確言できる。じゃあ、じゃんじゃん書いたらいいじゃないか、ということにはならない。「何」を書くか、は、何を書いてきたのかの「勘案」(consideration)が必要だからだ。もっと重要なのは、書いたものの「精査」である。
 つまるところ「整理」だ。一区切り、そして一区切りを、ていねいに繰り返す生き方である。脳を含めた記憶装置が2世代前の中古であっても、なんとか匍匐前進するマナーの実行だ。こう確信できる。だからこそ、一仕事終え、今野敏の「隠蔽捜査」最新刊を注文した。