読書日々 1181 小西甚一先生 

◆250124 読書日々 1181  小西甚一先生
 1 びちゃびちゃの雪(雨)が降っている。春先に戻った(?)ような日だが、相変わらずしゃんとしない。頭がだ。それでというわけではないが、何年ぶりのことになるか、妻に、公衆風呂に連れて行ってもらった。ゆっくり、慎重にも慎重を期して、浴場で振る舞ったが、やはりというか、靴や衣類の出し入れで、戸惑った。ま、案内係に聴けばいいのだが、それがぞんがいむずかしい。
 2 何度か書いたおぼえがあるが、もう一度書く。
 小西甚一『俳句  発生より現代までい(研究者学生文庫 昭和27)は、私が購入した最も古い本だ。巻末に、万年筆で(札幌)「南高2年3組」の記名がある。小西先生は、「国語」の受験書を書いて高名だったが、はじめはただ「俳句」とはどういうものか、をつまみ食いする程度のこととして、購入し、一読した。それが、この年になるまで、その主要著作を含めて、読み参照することとなった。
 3 拙著『日本人の哲学』(全10部 全5巻)の最大特等は、第2巻に、「文芸の哲学」をおいたことだ。その主張は「哲学は文芸である」で、その主張の起点は、小西甚一『日本文藝史』(1985~95 講談社)に負っている。この大著は、どんな難しい主題を取り扱っても、明快かつ論理的かるエモーションにまでおよんでよどむことのない、奇跡的な書だ。
 もちろん、私の著作は、その厚さにおいて小西先生の著作に肉薄することができうるとしても、質において、到底及び得ないと観念しながらの「追跡」の旅を送った。
 結果、私の頭は、スカスカになってしまった。2016年後に私が書いてきたものは、残りかすというより、「補遺」の類いである。だからといって、小西著作を神聖視する必要はない、というのがわたしの思いだ。
 わたしたちは、言葉が全運動の要となる世界に生きている。言葉は、言葉によって理解し、処理するするほかない。面白いじゃないか。

 *昨日転送しようと思ったが、パタッとインターネットが停止してしまった。今朝息子になおしてもらった。私のからだとご同様の仕儀か?