◆151023 読書日々 747
絵画や彫刻美の「解読」モデルが出た
硬い本ばかり読んでいる。今週は、他の差し迫った仕事を中断して、月曜10/19~金曜10/23、長谷川宏『日本精神史』(講談社 上下 15.9.8)を読みふけった。「書評」の仕事が絡んでだ。長谷川は1940年生まれだ。
1 全1000頁を超す大冊である。厚いのには閉口しないいが、内容が読み飛ばしを許さない。速読を許さない理由には二極ある。一は、難解というか難渋ではかばかしくない部類だ。もう一つは、読みやすいが、内容が豊かで、音読したくなるほどなめらかな叙述の本である。前者はカントの三批判書が典型で、この本は後者だ。
長谷川は、ヘーゲルの本を、哲学研究者でなくとも読むことができるように、何冊も翻訳している。わたしもそのおかげをこうむっている。そうそう。1960年代、わたしは、哲学科でカントから読むことを課(科)せられ、カントで卒論と修論を書いたが、ヘーゲルに「転向」した。そのときの気分は、ごつごつしたロッキー山脈から、プレーリー大草原に下り立った感覚であった。著者とわたしとは、思想も文体も異なる(と思う)が、ヘーゲルの気息で通じているように思える。
「日本精神史」というと、すぐに和辻哲郎を思い起こすことができる。和辻の最も得意とする「芸術」哲学とでもいうべき分野で、その大衆版が『古寺巡礼』だった。ただし、『日本精神史研究』は、若書きの「正」も、その後に書かれた「続」も、論集である。
2 ヘーゲルの哲学体系は、論理学、自然哲学、精神哲学の三部からなる。その「序」として「精神現象論」がある。和辻も、長谷川も、「精神」史といっても、美術・思想・文学を主軸に論じられる。「狭義」の精神史といってもいい。
ただし「思想」は「考えられたもの」のことだから、「独立」のものとして論じられることはほとんどなく、美術(作品)を「考え」、「文学」(作品)を考えることとしてあるのだと了解される。また、著者の目は、時代性とともに、作者と読者の関係に留意している点にも、納得できる。その上でいえば、著者の叙述は、彫刻、絵画を語るときと、文学作品を語るときとでは、はっきりした差を看て取ることができる。たとえば、天平彫刻の「阿修羅像」や山水画の長谷川等伯「松林図屏風」の「解読」というか「描写」は見事というほかない。「自然を超えた自然らしさ」という評言は、和辻哲郎の著述にも出てくるが、和辻には「言葉」だけがぽつんと措かれているだけなのに比べ、長谷川のは、「阿修羅像」にもうこれ以上はないという(ような)「解説」が施されているのである。俗なわたしなどは、この像の写真と長谷川解説とから、「瀬戸内少年野球」の夏目雅子をすぐに連想してしまった。ただし、像を前後、上下、左右と全方位からなめらかに描写してゆく手法は、デジタル時代に可能となった全方位映像描写と同じだと感じられる。これは平面に画かれた「屏風」図でも同じである。
対して文学作品「解読」は、古事記でも、源氏や平家でも、あるいは本居宣長の作品でも、「平板」と思われる。個人的にいえば、わたしが、文学作品を「分析」的に論じることにより多く馴染んでいるのに対し、絵画や彫刻、建築や芝居の観賞により少なくしか馴染んでいいないせいかもしれない。もっともわたしと著者との、絵画や彫刻に対するテイストは通じ合っている(と思う)。だから著者の「解読」を通じて、はじめて個々の作品の「よさ」が納得できたのだ。
3 これは蛇足になるかも知れないが、今後、日本の美術評論家は、とりわけ美術館の学芸員は、絵画や彫刻美を論じようと思うなら、著者の「解読」を参照しなければ済まなくなるだろう、と言い添えておこう。