◆180427 読書日々 879
山野博史『司馬さん、見つけました。』
先週末ひさしぶりに、というか1年ぶりに長沼の旧宅に泊ってきた。庭は雑草が生える前で、そこにいい風が吹いていた。それでも、首筋が多少かぶれて痒みを伴う。春はウルシの季節だった。一週間もすると蕗が丈を伸ばし食べ頃になるのではないだろうか。まる1冬空き家にしていたので、水回りに狂いが出ている。家って住まないと半死状態になる。ムシ(カメ)のすみかになる。それでも満々たる春だ。例年より一月早いと思える。
1 「子母沢寛」展(道文学館)の図録が送られてきた。わたしも書かされた。多少力を入れたつもりだ。子母澤さんの最大の功績は、司馬遼太郎自身が最も自愛するとされた『竜馬がゆく』と『燃えよ剣』を生み出した、生み出す契機を与えたことだろう。『勝海舟』と『新選組始末記』によってだ。
直木賞選考会で、司馬の出世作『梟の城』を唯一無二に推したのが、海音寺潮五郎であった。吉川英治ほかが難じた「理」が勝っているという評を跳ね返す気合いがこもっていたそうだ。また1956年「ペルシャの幻術師」で第8回講談倶楽部賞に(司馬遼太郎名義で、と記したが、山野さんの新刊121頁に、中編『道化の青春』でとあったとある。恥ずかしながら、訂正する)応募し、受賞したが、このときも海音寺の特例の配慮があったそうな。
芥川は漱石の推し、谷崎は荷風の推しで文壇デビューしたが、芥川は鴎外の、谷崎は鏡花の文壇識を受け継いでいる(と思える)。一見、司馬・海音寺・子母澤の関係に類似する。
子母澤は、榎本武揚をエッセイ類ではけっして評価していない。否むしろ、優等生が成り上がったようだと書いている。この人、テクノクラートとしては実に優秀な人であり、特に外交官僚として、特大の実績を残した。しかし政治軍事にかぎらず、戦略についてはからっきしだった。これは榎本を否定する評価ではない。
2 山野博史さんから久々に著書が届いた。『司馬さん、見つけました。』(和泉書院 180424 2000円+税)だ。山野さんは、大学院(京大法)の時、和泉書店(古書店)でアルバイトを志願したほどの本の虫で、とりわけ司馬遼太郎大好きの人だ。おそらく(probably 十中八九)山野さんがいなかったら、司馬遼太郎を、その断簡零墨にいたるまで拾い上げ伝えることは叶わなかっただろう。前に『発掘 司馬遼太郎』(文藝春秋 2001)を出している。本書はその続編のようにも想われるが、司馬「発掘」の手先はさらに「見つけた。」の喜び、心はずみに満ちている。(廃坑のなかに鉱脈を見いだした心躍りに似ている。)司馬フアン、見逃してはいけませんよ。なかでも、「海音寺作品評の最終便」は見逃しえない。海音寺『鷲の歌』の司馬書評、
「(前略)幕末の沖縄が、舞台である。
二百数十年前、薩摩藩の属邦として沖縄はむごいしぼられかたをした。一方では中国に属し、それに朝貢し、中国からは、薩摩藩からとはおよそ逆な処遇―寛大な保護とゆたかなみつぎもののお返し―をうけてきた。当然ながら官吏のなかに親中派と親薩派ができた。幕末、その両派が相克した。
この小説は、その相克が話のタテ糸になっている。(中略)この小説の主人公たちは、日本からそれほど搾取を受けつつも、同種結合という、いわば非合理な、しかしそれだけに人間的な希求に向かっていたましいほどの努力をする。その同種結合の利害や理屈をこえた沖縄人の祈念のようなものが、この小説の主題である。」
を引き、〈解明君主島津斉彬の急死により、この政治劇は親中派の日本帰属派弾圧で閉幕という史実を押さえ、篤実な筆法が結びに集中する。〉と(政治学者)山野がおさえ、再び引く。
「この悲劇を、作者は赤人という陽気でたくましい(たとえば万葉人のような)漁夫を活躍させることによって暗さから救い、たえず珊瑚礁に照る太陽のエネルギーを行間に感じさせつつ話をすすめている。この点、悲劇でありながら後味がそう快であり最後の一行に、つぎのあたらしい開幕を読者に想像させるなにかを読者にあたえてくれる。作者の祈りが、そうさせているのかもしれない。」
そして山野が続ける。
〈最後の1行は、「この歌があるのだ。この歌のあるかぎり、この心の伝わってゆくかぎり、いつか必ず、いつか必ず……」。司馬の異例の新聞史上書評。こまぎれ引用で愛想なしだが、これで読んだ気にならずに『鷲の歌』の一読を乞う。〉
そう、司馬作品のあと味の爽快さは、子母澤ではなく、海音寺に負っている。そう確信できる。同時に、山野さんの2著を繙読されたい。