◆180420 読書日々 878
数学って科学か?
いまのところ今年の春は足早だ。なんだか桜が咲きそうな気配だが、まさかと想う。長沼にいたときは、気配で春がジグザグでやって来ることがわかった。気温等からいうと、厚別もそれほどの違いはないはずだが、住んで感じるのは別天地だ。
1 宮脇俊三さんの旅は、とにかく気ぜわしい。『線路の果てに旅がある』(1994)もやはり「旅」というより、旅の仕事である。しかも、「旅」とは「人々が旗の下に隊列を組むこと」で、「軍旅」が典型だ。レジャーではない。宮脇さんは、一人旅で、書くために所々を巡る。せわしない。時間がたっぷりあっても、なぜかせわしない。
その宮脇さん、学生時代が戦時・敗戦時で、「米」持参で汽車旅を楽しんでいる。素敵だ。満載列車は敗戦後のことで、戦時中はあんがい混んでいなかったようだ。そして中央公論で編集者、編集長、局長、常務をへて53才で退職、プロの旅行作家となった。03年、78才で亡くなられるまで、実にたくさんの鉄道旅記を残された。こういう人の記録があるから、わたしのようなのらくらものでも旅を味わうことができる。一度乗った路線などは、満喫度が二重三重になる。
2 『日本人の哲学』で書き残したものがある。というか、書く土壌がわたしに備わっていなかった、というべきだろう。一つは、数学(関孝和)で、もう一つは資料(テキスト)は集めほぼ読んだが書く余裕がなかった統計学(小島勝治)だ。『学術上の東洋西洋』(上下)で三宅雪嶺は、数学に大きな紙面を割いている。田中美知太郎は、哲学はプラトンで終わっていると述べた。雪嶺は、哲学の中核をなす算法=数学は、古人であるか若輩であるかに関係なく、才能の問題だと記している。プラトンの学園の入り口には「幾何学(=数学)を知らざる者、この門より入るべからず」と掲げられていた。
じゃあ、数学とは何か? となるとことは簡単ではない。科学なのか? 科学として通常の科学(自然科学をモデル)なのか? 「理屈」(ロジック)なのか? 雪嶺は碁・将棋の才と数学の才を重ねている。地理にも物理にも「数学」は不可欠だが、科学のように「対象」がない。まさに「算法」だ。思考法に属する。じゃあ、哲学じゃないか。
ただし「科学」を、「……科」という分類のひとつにすると、いいかもしれないが、問題がさらに大きく残ってしまう。「科学」と「非科学」の区別が曖昧模糊になる。
雪嶺の四部作(エンチクロペディ)を読みながら、自己点検にならざるをえない理由だ。
3 いま、「主任警部モース」をDVDで観ている。もう少しで全33作を見終わるが、ゆっくり再見するつもりだ。昨春より、かなりのミステリを読んできたが、TVで放送される夏樹静子をはじめとするミステリもよくよく見ている。ま、いわゆるTV中毒老人だ。わたしは、メガネ・TV・自動車それにPCが老後を楽しむ必需品だと見なしてきた。読書・TV・足・情報・書くのに必須のアイテムで、頭に活力を与える原動力ともなる。ただし昨年、車は断念した。そのごわたしの自足は失われた。ま、歩くことはまだできるが。
前回も書いたが、「事典」類を見るのが好きだ。PCには主要な辞典事典が入っているが、楽しむための事典はない。そういえば『北海道文学大事典(人名編)』が、北海道文学館のアーカイブで見ることができる。わたしは今日『海外ミステリー大事典』(新潮社)をアマゾンで注文した。ミステリは民度(文化度)を図るともいわれるが、たしかに英国はミステリの宝庫だ。
ミステリは長いあいだ、(純)文学の中に入れられず、差別されてきた。哲学に純哲と雑(大衆)哲があるように、文学にも純と雑=大衆がある。あってもいいが、どちらが面白いか、文学としての質が高いか、は別だ。わたしは文学は、一作ごとであり、文学と非文学があるだけだ、と見なしてきたが、単純すぎるだろうか。純文学作家を名乗るものが、非文学でお茶を濁している例など、そこいらに見ることができないか?