読書日々 880

◆180504 読書日々 880
数学はシンプルでエレガントを尊ぶ。哲学も同じだ。
 小さいとき、敗戦直後も含めて、旧実家にはつねに客がいた(ように思われる)。祖父の居間、家族の居間に、そしてとくに雑貨店のスタッフルーム(父が常駐)に、それぞれ種類の違った人たちがいた。祖父も父も酒を飲まなかった。客に酒が振る舞われることもなかった。なぜこんなことをいうかというと、深夜、旧家とおぼしいところに、亡き母の知り合いだという3組の大人数が、突然訪れ、居座るという「夢」を見たからだ。わたしの識っている人は誰一人いない。旧郷には食堂の類もない。なにか食わせろという老若男女が必死の形相なのだ。対応不能、……?! 3時ころ夢から戻され、起きたが、実に後味の悪い夢だった。
 1 昨日、再放送で、「神の数式 この世はなにからできているか?」(全4部 完全版)の2部までを見た。素粒子論の天才たちが登場する。ディラック(1902~1984)もオッペンハイマー(1904~67 原爆の父)も、写真では知っていたが、若いとき、老齢時(?)、画面のなかで動いている。変な夢を見たのは、天才たちの動きあるいはしゃべる姿を見たからなのか?
 『日本人の哲学4  6 自然の哲学』で、素粒子論を取り上げ、南部陽一郎を特記した。南部も数学の天才だ。数学で思考する。だが、「数学的にエレガントで美しい理論を自然が採用しないはずはない」(ディラック)を尊重しながら、「対称性の自発的破れ」(SSB)を主張し、理論が「経験」(実験や常識)に合わないケースにであえば、経験的考えを導入する必要ありとする。実にまっとうだ。(南部はノーベル賞受賞の時、日本の記者の質問に対して、わたしは日本人ではない、と断じた。まっとうだ。だが南部は、豊中で死んだ。さらにまっとうだ。)
 先週(27日)M・Kさんからブログ宛てメールをもらった。数学に関する熱い思いが伝わってきた。実にいい。わたしは「経験」論者ではない。厳密にいうと、わたしの「経験」には、文献(読書)が大部分を占める。いくぶん旅行をしたし、かなりな人に会う機会もあったが、その人も含めて基本は「読書」での出会いだ。だから政治家や官僚(役人)は苦手だ。小沢一郎のベストセラー『日本改造計画』を評価するが、小沢がその一条なりと実現しようとしなかったことに、驚きはしない。自死した西部邁『小沢一郎は背広を着たごろつきである』の評に納得する。政治家や俳優の著書(いう・演じる)と本人をイコールで結ぶ必要なない。いう・演じることこそ重要なのだ、と解する。
 しかしディラックや南部は、著書と著者がピシッと対応している(ように思える)。南部の著書は、どんな難問を扱っていても、わたしでさえその思考回路を数式なしにたどってゆくことが可能なのだ。
 2 三宅雪嶺『学術上の東洋西洋』は、「博物学」を終わって、最終章「医学」に達した。医学は総合学であり、人間学の総括だ。これは世界共通で、個々の医者のあり方とはまったく別だ。今西錦司は、晩年、生物学=人類学を自然学の一部に位置づけ、自然科学と区別しようとした。これは雪嶺と基本的には同じ行き方で、物理学上における南部も同じように思える。
 わたしは虚学(形而上学)を否定しない。なぜか。人間世界も、人間も「言葉」で組み上がっているからだ。数学も例外ではない。言葉こそ神=創造神である。ライプニツは普遍言語ですべてを表記しようとした。コンピュータ理論のはしりである。微分積分を「発見」する。かぎりなく無限大に近づく、あるいはゼロに近づく数を、無限大・ゼロと等値しても何ら問題は出ない、数だ。
 言葉の哲学を吉本隆明、ソシュール・丸山圭三郎(『ソシュールの思想』)に学んだが、「人間=言葉」で、虚学=幻想=純粋仮説=数式(言語)が現実解明の「方法」であるということになる。しかも「方法」は「方法」から学ぶ・生れる。ただしわたしには、数学理法(式)を使うアーティストではない。医者の手術(アート)方式を実践でき。それでも、南部のすぐれたストーリテラー力に導かれて、そのいおうとしている「方法」(哲学)を理解することはできる。
 重要なのは、著者の、とりわけ著書の過ちを穿鑿することではない。重要なのは読解法(=哲学)を理解することだ。