◆180727 読書日々 892
「猛暑」を楽しみたい
バスが停車した場所(日陰)から、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の入り口まで、100メートルもあっただろうか。しかし物陰一つない歩道で、車椅子の人がいる。冷房のきいたバスから降りるには独特の気合いが必要だった。ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」を見ようと意気込む気勢も萎えるほどの暑さのなかである。ミラノも、アッシジも、ローマも、マルタも、もちろんエジプトもイスラエルも暑かった。温度計だけでいうと、日照りでは軽く50度に達する時間帯があった。貴重な経験で、50-80名の一行は、過半が高齢者だった。でも病院に担ぎ込まれた人は、生水を飲んだ人以外ほとんどいなかった。ま、「聖地巡礼」という独特の雰囲気が「暑さ」を圧倒したということはある。いいたいのは、「熱暑」を享受(enjoy)する、たのしむという工夫が必要だろう、ということだ。わたしは「異常気象」とか「非常事態」とかで、連日賑わす雰囲気は、嫌いだね。じきに、一月もすれば涼しくなる、といいたくなる。
1 穂積重遠『新訳論語』を読了した。この本には「本文」(漢文)が載っていない。文庫版でも本文だけで500頁になる。それに「庭訓」(home education)用である。無理もない。だがやはり物足りないというか、残念だ。だから、わたしのように老眼で細字が見えにくいものにとって、「Web漢文大系」の「論語」は大いに助かる。
呉智英『現代人の論語』(2003)には、細字ながら本文が載っている。親切である。それにこの本の価値はもっと言われていい。子路、子貢、顔回等、孔子の弟子、孔門十哲の評価を通じて孔子の「細部」に光を当て、師の陰影をみごとに照らし出している。
2 わたしは、人間は「過剰な欲望」を「無制限」に発動させようとする「存在」で、その根拠は人間が「言葉」をもったことにある、と考えている。言葉こそ、いま・ここに、いまだかって・どこにもなかったもの(非在)を、いま・ここに呼び起こす力(創造=想像力)である。
したがって言葉の「乱行」は言葉によって解決するほかないと考える。言葉(「幻像」imago)に「事実」(factum)を対置しても、言葉の魔力はなくならない、こう考える。吉本隆明の幻想論の「言論」が「言語」論であったことは、偶然ではない。哲学が、「言葉」に帰着してゆく理由でもある。ええ、数学は言語哲学の一領域なのだ。
そして、人間社会の発生以来、「過剰」な欲望の体形である資本主義は、「差異」から「価値」を生もうとする運動であり、言葉(差異の体系)をもった存在の思考と行動に、ぴったりフィットしてきた、と考える。したがって、資本主義の乗り越や絶滅を志向するどんな試みも、人間の存在(本性)を制限・否定する試みで、人間とその社会を衰滅に導く、と考えることができる。
3 わたしは、『イデオロギーの再認』(白水社 1985)でマルクス理論の現代的発展を図って、思考革命(アルチュセール)、国家論(プーランツァス)、言語論(ソシュール)、高度産業社会論(イリッチ)の批判的検討を行ったが、結局、マルクス理論の不能・不毛へと進まざるをえなくなった。
しかし人間は言葉をもってしまったのだ。その言葉は、文字通り、発明・発見者だ。もちろん、魑魅魍魎を含めてだ。言葉でこの世に呼び起こしたものは、言葉を介して解消・封印・展開するほかない。えっ、絵画や音楽は、言葉以上のものだって。冗談でしょう。車だって、サリンだって、言葉がこの世にい送り出したものだ。
3 なんかさみしい。鮎川哲也のミステリと評論(エッセイ)を読んでしまった。再読したいが、よしておこう。ひとまず2階の書庫に退避させなくてはならない。ちょっとつまらないので『日本ミステリー事典』(新潮社 2000)を読んでいる。この事典、そろそろ再版が必要だね。ずいぶん多くの作家が死んでいる。鮎川哲也、夏樹静子、……。
TVは、改編期で、まるで面白い出物はない。長い夜長をどうしてくれるんだ、といいたい。仕方なく(?)「はやすぎる探偵」などというドタバタを見る羽目に陥っている。