読書日々 891

◆180720 読書日々 891
暑中見舞い申し上げます
 日本列島「釜地獄」のような熱暑のなかで、わが札幌厚別には、涼風(?)が吹いている。まことに申し訳ない気がする。京・大坂・伊賀と23年間住んだ経験をもとにすれば、まさに「暑中見舞」い申し上げますだが、わたしの住むところは札幌市街よりさらに2~3度低いのだから、申し訳ない。 大阪の上町台地に下宿していたときは、夜中いっぱいとなりの在韓のおっチャンを中心に、素人将棋で気炎を上げていた。もちろん居間にクーラーなんぞない。大阪特有のヤケクソである。それに窓を開けると今でいう汚染物質が吹き込んでくる。1960年代、大阪は午後5時を過ぎるとぴたーっと凪になり、京都とはまた違った意味で、サウナ風呂さながらであった。ナツカシク思い出す。といっても老人の痩せ我慢か。今年はじめて昨日断酒(?!)した。それでというわけではないが、ちょっとおかしい。
 1 穂積重遠『新訳論語』(講談社学術文庫)は、途中、旅行等で中断があったが、20篇中16「季氏」まできた。わたしは仁斎『論語古義』が徂徠『論語徴』より胃の腑に落ちるところがある。ま、素人の観想だが、徂徠の政治好きに惹かれる、だからならじ。という理由もある。
 疾……沒世而名不詳(395 衛霊)
 西部さんは、東大の教授になってよかったことは、母を喜ばすことができたことだ、と書いている。「名」が不詳で没しても、いいのだ、むしろそれが知者(君子)の生き方だ、ではない。孔子は、名不詳で没するのを「にくむ」という。
 2 大西巨人は名利や評判から遠い生き方をした(ように思える)。大西の逆を行ったのが井上光晴だと(推測できる)『三位一体の神話』を書いた。痛切に面白かった。もちろん、これをモデル小説とみなしてのことだ。ことはそんなに単純ではない。それでも大西は、自分の作品が評価され、売れ、多くの読者を獲得すること、さらには、「名不詳」で終わることをにくんだ。だが、名利のために「作品」以外で策を弄しなかった。そう確信する(したい)。
 わたしの好きな作家を10人挙げよといわれたら、大西巨人と中野美代子が入る。中野さんは作品数が少ない(?)から耽読するのはいいとして、大西巨人や鮎川哲也は、ほどほどに多い。その大西が、終生、マルクス主義者をやめなかった、といわれる。ご本人の意識に照らせば、そういうことは可能だ。しかし、わたしも大西をマルクス主義(を超えたマルクス主義)者と規定したことがあるものの、この規定はやはり無理がある。私有財産制と民主主義を否定するマルクス主義は、大西のとは根本で異なる。大西はこの世で(トピア)私有財産制と民主主義を原理的に「肯定」する。
 3 西部も、産業主義と民主主義を「否定」するほどに「批判」する。この批判は、ある程度(おおいに)当たっている。しかし西部がいかにラディカリストとはいえ、この二つを根本で「否定」しないし、できるものではない。産業主義と民主主義の「危険」(あやうさ・もろさ)、行き過ぎを批判し続けた(にすぎない)のである。といってもこれはとても難しい。嫌われ者になることを覚悟しなければならない。そのうえ、ときに尻をまくって、アメリカやチャイナが核をもってよくって、北朝鮮や日本が核をもつのはなぜいけないのか、だれがいけないといえるのか、そんな資格のある国や為政者、論者がいるのか、としらっといってのける。
 それで話が元に戻るが、わたしが知るかぎり、「名不詳」をにく(疾)まないひとは、いない。名不詳に終わる(自分の不幸)をにくむあまり、「名称」を得た人をにくむというケースは、ときに見受けることがある。それはおまえにないのか、といわれれば、ある、と答えなければならない。
 4 鮎川哲也編『密室探求』1・2(講談社文庫)は、面白いというか、堪能できる。できばえはというと、第1集左右田謙「山荘殺人事件」、飛鳥高「二粒の真珠」など、(わたしに)未知の作家に妙味を感じた。第2集は、ちょっと作りすぎというか、白々しく思える。高木彬光「月世界の女」のようにだ。