◆180824 読書日々 896
新十津川物語 野呂、西田、関矢
ひさしぶりに街に出た。日射が強く穴蔵然としているところに起居している身にとっては、堪える。もっとも、ヤワな老体のためで、また元来陽射に対して、アレルギー症状を起こす体質のためかと思われる。
1 2つのことを思い起こされた。
33歳(1975)、ようやく三重短大(津市立 法哲学)に職を得て、夏・冬休みは唯一の自由時間。家族は妻の実家に返して、「研究」なるものにいそしんだ。伊賀盆地である。朝と夜は多少涼しい。だが昼は風がなく蒸し暑い。居間で食卓を机代わりにし、雨戸を閉め切って陽射しを遮る。主食は、隣町(青山町)から自転車で峠を越えて売りに来る(大型の木綿)「豆腐」であった。これに醤油をかけ、唐辛子をまぶして食べるのだ。うまい。これを1月余続けた。多少結論めいたものに到達できた。名張まで出て、滋養のあるものを食べようと、ひさしぶりに太陽の下に体をさらした。目がくらんで、動けなくなった。じんましん(のようなもの)に襲われた。家の中に退却である。
50代の半ば、狂牛病がヨーロッパを襲ったときだ。聖地巡礼の旅に参加し、ポーランドのクラカウに着き、アウシュビッツ強制収容所を訪ね、もちろん朝は各地の教会で礼拝、パリからバスでルルドへ、……ピレーネを超え、ザビエル城、そして目的地のサンチャゴ・デ・コンポステラにつくという、ヤコブの道をたどった。4月というのに、ヨーロッパは寒かった。寒波だ。それに肉が食えない。ついに10日すぎて、体が悲鳴を上げた。腰から上に鎧状の「湿疹」(?)が出た。猛烈にかゆい。だが陽に当たると膨張する。じくじくになる。帰国して診てもらった皮膚科の女医は、フルコートを塗れば治ると請け合ってくれた。たしかに湿疹は治まった。3年間、全身が、最も頭の中が痒く、安民不能の状態に襲われた。それから15年近くになる。体調を崩すと、湿疹が出てくる。陽射しと擦れに特に弱い。
2 渡部昇一先生が、自著に書いている。大学教師の研究の敵は、「長」(チョウチョウ=役職)に着くこと、副業(特に官庁の○×委員)を引き受けること、そして家事育児を分担すること、この3点セットである、と。もちろん、この3つは、必要条件にすぎず、十分条件ではない。
渡部先生の偉いところは、この3点を遵守し、研究したことだ。結果、貴重な研究成果と仕事(works 著作)が残された。しかし、子供のいなかった谷沢先生は、生涯、この3点を遵守すること、他の誰にも引けをとらない、と誇っていた。
わたしは渡部・谷沢先生より一世代下だ。戦後育ち(アプレ・ゲール)である。だが、両先生の本に出会う前から、この3点セットを実行してきたように思える。ま、これを許してくれたツレアイがいたからこそである、とは深く思って(感謝して)きた。もちろん、わたしも、「清書」なども含め、一切、研究の「手伝い」をお願いしたことはないが。
3 NHKの「新十津川物語」をみて、「桑原真人(時代考証)」の名前を見つけた。札幌大の元同僚で、最後は学長を務めた歴史家(特に北海道史)である。桑原さんとの最初の出会いは、『野呂栄太郎とその時代』(道新選書 1988)を書いたときで、当時、桑原さんは北海道記念館の研究員で、関矢留作(1905~35)を野呂(1900~34)の「ネガ」(じつはポジ)として1章を加えようとしたとき、関矢家に紹介の労をとってくれた。そのご桑原さんは、札幌大の(日本)歴史の教授に招かれて、同僚になったが、わたしが「同僚」との付き合いを忌避し、会合等に一切参加しなかったため、本での付き合いになった。桑原さんの名著でロングセラーに、『北海道の歴史がわかる本 石器時代から近・現代までイッキ読み!』(亜璃西社 2008)があり、随時世話になっている。
4 「新十津川」で忘れえないのは、西田信春(1903~33)だ。新十津川出身で、札一中、一高、東大(倫理学)を出て、革命運動で共産党に入り、福岡で検挙、拷問死、秘密裏に葬られた。その生涯と死(後)までの経緯は、東大時代からの友人、石堂清倫・中野重治・原泉編『西田信春書簡・追憶』(土筆社 1970)に詳しい。
新十津川は、十津川村長=西田の父が、大水害に遭い、翌1890年(明治23)に、その被災者600戸(2489人)を率いて入植、切り開いた村だ。わたしは、札沼線の「終点」ではなく、石狩川を挟む、滝川と双子都市(ブダ・ペストと同じように)を想像してきた。
ただし「十津川」が、尊皇(郷士)の村という特殊な地位にあったこと、移住は他の地域と異なって、政府によって厚遇されたことなどは、TVには如実に出ていないのが残念だった。
若いとき、野呂(長沼)、関矢(野幌)、西田(新十津川)という、戦前共産党幹部(党員数は100名前後?)で同世代の活動を立体的に書いてみたいと思ってたが、ま、幻想だろう。