読書日々 1029

◆210312 読書日々 1029 新興「新さっぽろ」の終わりの始まり
 1 「三寒四温(marking the end of winter and the beginning of spring.)というが、いまどきの北海道の気候だ。年度末で色々な行事が重なる中、「大雪」で行く手を阻まれることしばしばだ。といっても昨今、除雪が行き届いている。車道だけでなく歩道もだ。吹きだまりはできるが、早晩、除雪される。
 1980年代から、長沼から職場(札大)に40km余りを車で通っていた。25年余だ。何度雪だまりに乗り上げ、横転しそうになったことか。なによりも怖いのは、視界を塞ぐ吹雪である。進路をはずれて吹きだまりに突っ込んでしまうのだ。ところが車が大破したとか、怪我をしたとかいうことはなかった。ただし、積雪で道がふさがれ、何度雪原のなかを彷徨ってことか。そんなことは何か遠い彼方のことのような気がする。ま、数年前、車を手放したので、そういう苦労もなくなったが。
 だが、三寒四温は、春の「兆し」でもある。「もうすぐ春ですよ!」だから、悪くない。
 2 『三宅雪嶺 異例の哲学』(言視舎)の初校をやっと終えた。まだ、自原稿(デジタル)に転記が残っている。悪戦苦闘である。視力がぐーんと落ちたからだ。照明が暗いと見えにくい。明るいと、ハレーションを起こす。老化だから仕方のないところだが、まだ見えるのだから、文句はいえまい。
 3 吉村昭『東京の下町』(文春文庫)を堪能して、同『蟹の横ばい』(中公文庫)を手にした。前者には、著者が生まれ育った戦前の日暮里の町と人々の風情がたんたんと描かれている。
 わたしは、とくにエッセイの類は、他のエッセイに引用されている箇所や描かれている人、場所等に牽引され、購入するを常としてきた。現在はほとんど全部アマゾン(ネット)で購入している。
 吉村の好きな相撲取りは「玉錦」で、わたしの好きだったのは「照國」だった。一回り以上歳の違う吉村さんとは違って当然で、照國の色白の体躯が、多少、父に似ていたこともあった。そうそう、双葉山は、羽黒山、名寄岩とともに、立浪三羽がらすといわれたが、その相撲を見たことなく、何かうさんくさい感じがした記憶が残っている。
 4 3月は、2011年、8日に谷沢先生が亡くなった。12日が長女の誕生日で、13日が吉永小百合の生れた日だ。わたしもお相伴したが、小中学同期の佐々木君の誕生日でもあった。わたしたちの時代は、生年月日の順に名をよばれ、佐々木君とわたしが、いつも最後であった。日米戦争が始まった年の生まれは、人数が多く、狭い教室に60人余が机を並べた。
 吉村さんの『東京の下町』を読んでいて、急にわたしが生まれた実家の「厚別東区」の近隣のことが思い起こされた。白石村厚別には、東区と西区があり、その他は区でなく、旭町、川下、山本、小野幌、上野幌、下野幌部落であった。厚別区・西区が、厚別開拓に入ったファーストランナーの人が住む地区で、他部落と区別していた(のだと思える)。
 東区は商業区で、農協・学校・神社があり、駐在所があった。商業区は厚別駅前に、遠藤・村上(酒・雑貨)商店、名古屋豆腐店、白井運送・厚別農協・酪農・関牛舎があり、旧国道12号線付近沿いに、ずらりと(?)小島煙草・新谷畳・俵谷自転車・高松魚野菜・岡崎馬蹄、筋向かいに浜旅館・藤元書店・大阪理髪・鷲田雑貨(酒・米・塩等々)・厚別酒造会社等々が並んでいた。というように東区の駅周辺が「繁華」(?!)街であった。ただし、厚別に、サラリーマンは少なかった。ほとんどが「農」業従事者とその家族であった。
 この町勢が根本的に変わるのは、1958年開始の旭町「ひばりヶ丘」団地の建設であり、1970年、札幌オリンピックを契機にした地下鉄と新札幌駅開通であった。その変化が50年を経て、今最終段階を迎えている。新さっぽろ周辺の再開発である。といっても、人口減がすでにはじまっている。
 ただしわたしは、旧村に郷愁を懐いているわけではない。戦前はもとより、戦後の白石村字厚別を知っている人はほとんどいなくなった。わたしは、厚別にほとんど住んでこなかったが、それを多少とも知る少ない一人である。