◆210305 読書日々 1028 漱石の騒がしい死
 二日続けの雪績が、昨日と一昨日の暖気でかなり融けた。3月はやはりいつものように雪の季節だ。この時期、学生時代、といっても10数年にわたるが、春休みで帰省する旅に経験した「雪」物語がある。一番多いのは、やはり帰省列車のなかでのことだ。
 1 すぐ上の姉が結婚した。義兄の実家は、「館〔たて〕」で、結婚式は叔父(母の弟で実家のりんご園を継いだ)とともに、札幌から車で函館に向かった。前日、実家で親戚を集めた披露宴があり、わたしはなんだかんだでほとんど徹夜状態で出発する。途中何度か眠さに襲われたが、運転中の緊張で踏みとどまり、半睡状態で式場に着き、酒も多少は飲んで、あれやこれやで式を終えた。
 叔父に車を渡し、連絡船に乗り、青森から富山行きの夜行準急に乗り、リュックサックを網棚に乗せたまでは憶えている。だが終駅まで完熟睡していた。目を覚ますと、体が動かない。固まっているのだ。最初に、リュックの安否確認をした。この間12時間余り身動きもせず睡っていたことになる。富山から金沢へ、そこから特急で大阪まで、あっというまに着いた(ように憶えている)。
 2 眠りといえば、大阪、東京、青森、函館、札幌と全線、鈍行に乗る計画を立て、実行した。「眠らない」をスローガンにしてだ。この時代、「夜行」は、準急というか、主要駅しか停まらない。眠らないためには、停車駅ごとにホームに降りて発車を待つという単純な手を取ることにした。(このときではなかったが)一つ記憶に残っている。
 啄木のふるさとの渋民駅は次駅(好摩?)に向かって上っている。スピードが遅い。蒸気機関車のときだ。無人のホームをゆっくり走って飛びのる。これだけで気分が更新される。
 かくして30時間以上、眠ることなく実家に着いた。夕方であった。食事をすぐ取り、バタンと横になった。目を覚ます。明るい。気分がいい。おなかがすいている。朝飯だ。が、父と母と3人の食事に賑やかさがある。夕食だったのだ。わたしは丸まる1日眠っていたことに気づく。おまけに朝日と夕日を間違えていた。そういえば、まだ独身で、このころはのんびりしていた。定職を持ってからは、徹夜などは日常茶飯事だったが、1日24時間眠り続けるなど、今もって論外に思える。
 3 今朝、『三宅雪嶺』の「あとがき」10枚を書き終えた。
 昨晩は、高梨がラージヒルで、2位を得た。2本目のジャンプは、出場選手中最高だったのではないだろうか。それにしても解説の原田は、あいかわらず下手というか、そのジャンプ同様、間が悪い。等々、TVに魅せられて、寝てしまった。それで、仕上げが今朝になった。
 4 『夏目家の食卓』をTVで見た。漱石ものは何でも面白い。これを契機に(?)、漱石の長篇小説名を指折り数えた。ところが何度やっても、順不同でも、思い出せないのがある。10指に満たないのだから、まずい。
 だが、「あとがき」を書き終え、日記を書きはじめた。猫、坊っちゃん、虞美人草、三四郎、それから、門、家、行人、草枕、道草、こころ、明暗、あっ書き出せた。朝だからだろうか? 酒を呑んでいないからだろうか?ま、いいさ。とうぶん漱石はOK。
 漱石は49歳で亡くなった。なにか息苦しく生きたな、という感じが色濃い。D・ヒューム(1711-76)は、漱石よりもっと息苦しく生きたように思える。なにせ、独学で10代の時「発見」したという哲学原理を、解明し論究しようとして、イギリスのエジンバラから、生活費が安いという理由でフランスの片田舎に住み、『人間本性論』(1739-40)を文字通り独力で書きあげ、自費出版した。
 その哲学の2大原理は、「観念(idea)は感覚(passion)の束である」と「原因と結果には必然的関係はない」である。
 だが、この処女作は、学界はもちろん世間からもまったく無視された。ヒュームは、自分の作品を「死児のまま生れた」と自評したほどだ。ただしこれは自虐表現ではない。
 ヒュームはめげない。この処女作を、書き直し、世間に分かるようにして出版し、作家の地位を築いてゆく。ヒュームの哲学を継承したのが、アダム・スミスだ。のちに、ドイツのカントは、この書によって「わたしの独断の夢は醒まされた」と評したほど、哲学史上最重要の作品とみなされたが、現在もなお、その真価を理解されているとはいいがたい。
 ヒュームの最後は漱石と違い、静謐だった。素晴らしい。詳しくは、拙著『日本人の哲学 5』の「人生論」(自伝)を読まれたい。