◆210423 読書日々 1035 拙新著が到着!
好天が続く。乾燥しているが、気分がいい。理由がある。
1 拙著『三宅雪嶺 異例の哲学』(言視舎 210430 3000+税)が届いた。本文457頁の分厚い本が、今、目の前にある。山田英春さんの装幀はシンプル・イズ・ベストだ。肌触りが実にいい。ただし、これまでのどの新刊も、それをはじめて手にするときは、大げさな言い方になるが、心が震えた。例外がない。
わたしの哲学研究は、カントからマルクス、ヘーゲルをへてヒュームへ、さらにスピノザのデモクラシーへと遡上した。そして、『吉本隆明論』をへて、日本の哲学山脈を遍歴し、福沢諭吉を経て、今まさに『三宅雪嶺』論ににたどり着いた。ずいぶん長い時をへた旅だったが、たどり着けば指呼の間にも思える。
2 人はなぜ書くのか?
それにしても、たくさん書いてきた。卒論や修論のように、最初は「義務」だった。
それでも、否でも応でもなかった。「書きたい」からだ。
「書いたもの」など、どんなに大真面目でも、本人以外には、つまらない、取るに足らないものである。だが、ある特定の人は、書くことをやめない。理由は、圧縮していえば、「永遠」につながりたい、と思うからだ。
個人は、例外なく死ぬ。家族や知人、親友や同僚も、例外なく没する。どんなに重要と思える人も、「記録」がなれば、やがては跡形もなく消えてゆく。
人の「生」は「死」によって終わる。稀に「骨」や「墓」として、さらに稀には他者の記録(歴史)等のなかで、生き残る。稀の稀に、長期間、遺物の中に誰と知れず生き残る。しかし、以上は、偶然といえるもので、結局は、なんであれ、消滅を免れえない。
書いたものは、どんなに必死であれ、一時は、誰かの記憶のなかに残るかも知れないが、早晩、死滅を免れえない。それでも、人は、書く。書くことをやめない。
3 人とは言葉だ。
しかし、人である。直立歩行、道具制作、言語使用し、部族と家族もつ。これが人間と非人間を別つ5指標だ。とりわけ言葉の使用が、人間を人間にする。人は、書く存在であることによって、人間でありうる。こうショート(短絡)していい。
4 書くことをやめない。
雪嶺には、他のすべてのものがあるが、「言葉」の哲学がない。それもそのはず、言葉の哲学は、20世紀初め、ソシュールによって、はじめて論じられた(『一般言語学講義』1916)。
吉本は、ソシュールの言語論に依拠して、『言語にとって美とはなにか』(1961-69)を書き、自己・対・共同幻想論に及んだ。すごい。
しかし、吉本は、言語論をもとに、人間論の「全般」を書き抜かなかった。わたしのテーゼでは、
〈人間は言葉を持つことで、人間になった。〉
〈人間は、言葉によって、過剰な欲望を無制限に発動しようとする。」だから、
〈人間の無制限な欲望の発動〉を〈抑制〉できるのも、〈言葉〉なのだ。
5 〈人間が書くのは、人間であるための必須条件である。〉「余剰」でも「欠落」でもない。人間固有の創造行為なのだ。
……というような吉本以降の行論を書きたいね。ま、無理だろうが。
それにしても、目と脳の衰弱というのか、機能低下が激しい。それも尋常の低下ではない。老化でかたづけたくない。
6 雪嶺論が出て、デスクから見える書棚に収まっている雪嶺の膨大な著作と関連書等が移動可能になった。次は何を並べるか? 時間はありそうだが、体が、とりわけ目と脳が刺激に堪えうるか? はなはだ自信がない。