読書日々 1099

◆220715 読書日々 1099  アルチュセールに倣いて
 30年余前、こんな文章を書いた。『「社会主義の黄昏」  激動の20世紀末』(*661枚)としてまとめた中の一文である。

《「アルチュセールの遺産とわたしたちの世代―孤立を生きぬく」
 *『窓』 窓社 6号(1990.12.12)
 ルイ・アルチュセールが、10月22日、精神病院で死んだ。72歳であった。80年11月16日、「精神錯乱」のため妻を絞殺してからちょうど10年たったことになる。 アルチュセールは、68年、「ウニタ」紙のインタビューに次のように答えた。
 私は48年、30歳で哲学教授になり、フランス共産党に入党した。哲学に興味をもっていたので、それを職業にしようとした。政治に情熱を感じていたので、共産党員になろうとした。哲学のなかで興味をもったのは、科学的認識を求め、イデオロギー的「認識」の欺瞞に反対する、唯物論の、合理的・批判的機能であった。政治のなかで情熱を感じたのは、社会主義をめざす闘争における労働者階級の革命的な本能、知性、勇気、ヒロイズムであった。一切を決定したのは政治である。政治一般ではなく、マルクス主義的政治であるまずそれを見いだし、理解する必要があった。・・・(邦訳『資本論を読む』合同出版)
 スターリン主義批判の哲学的形態の獲得とでも呼ぶべきアルチュセールの思想的試みは、しかし、アルチュセールの半身にしかすぎない。
 アルチュセールは、科学とイデオロギーの峻別を述べたすぐ後で、哲学と諸科学とは異なる、哲学は独断的命題であり、科学が「真理」に向かうのに対して、哲学は「正さ」に向かうと主張するのである。つまり、哲学はイデオロギーである、と。この主張は、哲学を否定するためのものではない。否定的に肯定する、つまり救済するこそのものなのである。
 アルチュセールは、労働者階級の革命性、世界史的役割にこそマルクス主義政治がよってたつ根拠があるとするならば、社会主義は、一つの統合的な社会構成体ではなく、資本主義から共産主義への長い過渡的な過程にほかならず、それを一言でいえば、プロ独裁である、というのである。プロ独裁の放棄に逆らうアルチュセールは、しかし、「社会主義」、「プロ独裁」の肯定者なのか。然り、かつ、否である。
 労働者階級が革命的本能を持ち世界史的役割を果たすことと、社会主義が資本主義と共産主義の「混合物」であるということ、さらには、プロ独裁が「中央集権主義」の上に打ち建てられない措置、つまり前衛党の組織原則たる「民主集中制」の民主化という前提の上で、肯定するのである。すなわち、現存する社会主義や社会主義運動の否定のうえで肯定するのである。
 マルクス主義の肯定的否定、否定的肯定を生きたアルチュセールのような思考者は、マルクス主義運動のなかで孤立せざるをえなかった。彼の「人間主義」批判や「経済主義」批判はスターリン主義の「亡霊」とみなされ、イデオロギーの肯定的解明作業は新しい神話の復活と嘲笑された。
 さらに、プロ独裁論をはじめとするアルチュセールの政治的見解は、労働者階級と社会主義に分岐を持ち込む「策動」、「プチブルアナーキズム」であるとして、党内での討論を封じられるに至るのである。その直後に、80年の肉体的「死」がやって来たのである。
 アルチュセールは、文字どおりマルクス主義の危機を生きぬいた。アルチュセールはその〈危機〉を対象化する。何よりもその生き方と意識が、私と同じ年齢の人々をとらえた。20代から30代にかけての思想形成期に、アルチュセールの洗礼を受けた者と受けない者との違いは、歴然としている。
 私は、二世代上の森信成、一世代上の廣松渉、中野徹三、丸山圭三郎等に大きな影響を受けた。しかし、この先達たちには、アルチュセールの「影」しか見いだす事は出来ない。この先達と私の哲学的・思想的意識の背景が異なる当然の理由はあるのである。
 私と同じ世代の思考者では、アルチュセールに対する接近度が、その人の思想的ポジションを決定づけている、と考えてよい理由がある。柄谷行人、今村仁司、高橋洋児、山崎カオルはアルチュセールの決定的影響の下にその思想的歩みを始めた。三島憲一、栗本慎一郎、小谷汪之、北村寧等には「影」以上のものが感じられるのである。
 しかし、アルチュセールの「錯乱」から死までの10年間は、マルクス主義の危機が不可逆的に続行した時期にあたる。今日、単なる敗北ではなく、死さえも宣言されている。わたしたちは、アルチュセールの延長上に生きているだけでなく、その背景を共同意識で生きぬくだけではなく、彼をとらえた危機以上の問題のまっただなかを固有の個体的背景の下に生きなければならないのである。
 マルクスとレーニンを否定的肯定のなかで生きぬいたアルチュセール、そのアルチュセールを肯定的否定のなかで生きなければならないわたしたち。マルクス主義の否定的肯定、言い逃れなくいうと、否定の果ての肯定、をである。》

 社会主義「独裁」に退行する、ロシアと中国の侵略主義を現前にして、わたしなどはまだ生きながらえている。アルチュセールを教えてくれた今村はもういない。柄谷は書いているが、高橋はどこにいるのだろう。