◆130802 読書日々 631
シャーロック・ホームズをマルクスが訪ねたって、不思議じゃない。
8月に入って、朝晩がずいぶん涼しくなったと感じられる。世界水泳が楽しみで、真夜中に放送されるのに身を任せていたが、さすがに疲れるというか、脳体に変調を来してきた。一昨日からビデオにして、早朝観ることにしたが、予想はしていたもののやはり臨場感に欠ける。この大会、世界では続々とニューヒーロー・ヒロインが現れているが、日本でも萩野公介が大車輪の活躍である。今のところ銀2個、1つぐらいは金メダルを取らせたい。
プロ野球はジャイアンツが接戦をものにして、好調が続いている。そういえば、元エースの堀内恒夫が、参議院議員の繰り上げ当選を果たした。これなども、イチローの4000本安打や松井の引退セレモニーの影に隠れているが、プロ野球にとっては大きなニュースなのだろうね。
『日本人の哲学3』の「政治の哲学」を再開する。わたしにとって「大学の哲学」(スコラ)は、その中にながいあいだ身を潜める時期はあったが、歴史的にも実体的にも、哲学のごく一部にすぎない。あらためていえば、「文学部」にはいって、国文にするか、歴史にするか、哲学にするか、正直いって迷った。ようやくたどり着いたのは、「文学」部とは、探索・発見=歴史と認識・判断=哲学と吟味・表現=文学との三位一体の領域である。もちろん歴史も発見・認識・表現の三位一体であり、文学はまさに探索・認識・表現の三位一体である。いずれも「書かれたもの」を対象にし、それを「再」発見し「再」認識し「再」表現するart=技術にちがいない。
「政治の哲学」がめざすのは、「哲学は政治である」というテーゼを証明することだ。哲学は政治の技術(art)をその不可分の要素として含むということに他ならない。といっても日本の政治哲学者(といわれてきた人たち)はまことにお寒いかぎりというか、政治に関しては「素人」丸出しで、そのかかげる「哲学」は「学校哲学」のほんの一部にすぎない。それでも、戦後にかぎっても、政治学の佐藤誠三郎、北岡伸一や中川八洋、歴史学の岡田英弘、経済学の小室直樹、それにたんに哲学者にすぎない=本当の意味の哲学者である吉本隆明やがいる。「政治の哲学」の代表である。
目についたら池波正太郎の「剣客商売」の映像化作品を観ている。山形勲・加藤剛コンビもよかったが、藤田まこと・渡部篤郞=山口馬木也コンビのほうが「清新」である。中村又五郎・加藤剛コンビは、いただけなかった。又五郎、女をほれぼれさせる色気に欠けている。父の小兵衛は原作では90歳を超えてなお生きている(と推定される)。
長命といえば、シャーロック・ホームズは1854年生まれで1957年になくなった(と推定されている)。そのホームズ、1891年、モリアーティと死闘を演じ、アルプスでなくなった。だが実は生きていて、オーストリにフロイトを訪ね、チベット(や日本?)まで足を伸ばして、1894年ロンドンに生還している。フロイトに会っているのなら、当然マルクスにだって会っても不思議はない。「フロイトとマルクス」は、個人の無意識と社会の無意識を明らかにした哲学者である。ただし18年生まれのマルクスに対し、フロイトは56年生まれで、シャーロックとほとんど同じ年だ。
シャーロックが一度死ぬ20年前、1871年4月13日、シャーロックのもとを『資本論』(第1巻)完成直前のマルクスが訪ねた、という設定の『シャーロック・ホームズを訪ねたカール・マルクス』(1981)というミステリがある。最近手に入れた本で、フランスのアレクシス・ルカーユの作品で、1982年に中公のC*NOVELSに入った。(ホームズがまだ高校生のときに当たるので、作品ではすでに探偵業を営んでいるという難点があるが、)コンミューンでわきたつパリが舞台なのだから、すてきな舞台設定ではないだろうか。マルクス54歳の時だ。
マルクスの伝記類はずいぶん読んだ。マルクス論を書くためでもあったが、マルクスのミステリアスなやんちゃ振りには驚かされたものだ。といってもわたしが読んだのは、主なものだけで、メーリング、リャザノフ、E・H・カー、コルシュ、バーリン、セレブリアコワ、マクレラン、シュワルツヘルト、土屋保男等々という超まじめなもので、もちろんミステリではない。わたしの書棚だけでも、マルクス伝記だけで50冊をくだらないのではないだろうか?(えっ、過半は断捨離してしまったじゃないか、だって? 調べていない。)