読書日々 1639 『福沢諭吉の事件簿』再々読

◆240412 読書日々 1639 『福沢諭吉の事件簿』再々読
 暖かい。尋常ならざるほどだ。しかも小雨が落ちている。塵埃が舞わない。実に気分がいい。
 1 早朝、目が覚めた。ゴットン、ゴットンという静かな音が伝わってくる。千歳線を通過する貨物の音だ。長蛇で、音が長く消えない。私の住家は、もとから、函館本線と千歳線に挟まれていたが、もともと千歳線は、函館本線に交わらず、札幌から平衡状態にあった。だからいまより1キロ近く離れたところを走る千歳線の貨車の列音を耳にする機会はなかった(といっていい)。現在は、私の部屋から500メータもない高架を連なって通る。静かだが、なかなかの音だ。それを長いあいだ耳にしなかったが、この10日余り、眠れなかったのか、よくよく気づいた。
 2 今日、新聞を開くと、死亡欄に、井内育(82)の名があった。井内の叔母は、義母の妹で、つわもの揃いの叔母連中のなかで唯一、おっとりした、しかもしっかり者であった。その叔母の家を新婚時代訪問することになった。旧千歳線の沿線にある、「公団」(?)住宅であった。もちろん、高層住宅ではなく、ブロックを積み重ねた、窓の小さな、2DKという狭小住宅であった。叔父は教員で、お子さんは2人、狭いのに、整理万端、とても使い勝手の良い整い方に思えた。叔父の死後、叔母は長く一人暮らしだと聞いた。新築なった家には訪れたことがあるが、とても気持ちのいい造りになっていた。(昨年の暮れ、母の最後の妹が亡くなった。島根の松江であった。)
 3 新聞は、この8年、朝刊だけとっている。最初に1面の下段を見る。「書物」広告の欄だ。次ぎに、鷲田清一「折々の言葉」で、3番目に、死亡欄を開く。そしてスポーツ欄に、焦点は巨人の動向。昨夜、巨人が菅野の好投でスワローズを退けた。物心ついてからの巨人フアンで、80年になんなんとするのだから、これはどうしようもない。だから関西の23年間は、1人でTVを見るのを常とした。
 4 8日、妹の惇子が長男の恭平君を伴って来訪。妹は、横浜に長く住み、なかなかの世話焼で、すぐに、次姉を尋ねたそうだ。この姉とは、慶弔のとき以外顔を合わす機会がなかった。生きていたのか、とほっとした。私は男1人で、姉2人、妹2人だが、末妹が既になく、……。父が69、義父が49で亡くなり、私のところも妻のところも、女だけが残り、これがなかなか厳しかったが、今後はおだやかになるのかな。もちろん、馬耳東風にではなくである。
 妹を伴ってきた恭平君は、好男子を見本にしたような男で、退職後、妹のところに2晩泊めて貰い、夫君と呼び出した恭平3人で一晩飲み明かした。ま、2升程度だったから、あれやこれや語ったようだったが、内容は全部、すっかりというか、覚えていない。それでも、恭平君には、その後ときどき書いたものを進呈してきた。今回は『福沢諭吉の事件簿』(言視舎)全3巻を送った。
 5 一人の思想家、それも最敬愛する日本の思想家をどのような内容で書くのか、それをどのような形式で書きあげるのが最も適切か、を考えに考えた末、「時代小説」それも「事件簿」形式で書くことを選んだ。
 時代小説と事件簿(探偵小説)の最初の作品は、岡本綺堂『半七捕物帳』(初編 1917)である。同じ心持ちで、それから100年、福沢諭吉の事件簿を書く、それも、思想家諭吉を本筋とする、歴史小説をだ。ま、志(こころざし)の高低は問えないが、自分ではまずまず諭吉の事跡を書くことが出来たように思えた。
 この本を、いま再読している。何度目だろうか。まずいことに、読むと熱中したときのことが襲ってくる。ああこれがマスターベーションなのだろと思いつつだ。250冊余り書いてきての結論でもある。