納得する日本史<古代史篇>(言視社)

「異端」かつ「正道」をゆく

『納得する日本史 〈古代史編〉』(言視舎 20231031 215頁)
 1 「歴史」には「作者」がいる。歴史は「作家」が作るのだ。単数、複数を、有名、無名を問わない。おこがましくも、わたしもその「ひとり」と思ってきた。ただしわたしの場合、中心が「思想」の歴史、特に「哲学」の歴史であったが、これも立派な「歴史」である。(ま、恩師の谷沢永一先生には、「哲学はイデオロギーで、空無じゃないの?」と一蹴されたが。) 

2 わたしは、中・高の歴史「教科書」にさえ、自然と聴き耳を立てずにはおられなかった。正確には、地理と歴史の教科書に、である。もっとも、教えてくれた「先生」の「魅力」(「偏見」)に負っていたと思える。「先生」が歴史の「演出者」〔ディレクター〕であった。 なんだ、教科書など、いつ(年号)、誰(偉人)が、どんな事件(事実)をおこしたのか、の寄せ集め(パンフレット)じゃないか。無味乾燥きわまりない。こう、反論されるかもしれない。でも、「645」(ムシ・ゴヒキ)という「記号」からどんな「物語」を紡ぎ出すかは、あなた(シナリオ・ライター)の腕次第なのだ。 わたしはといえば、後年、『日本書紀』の「大化の改新」のところで、現代語訳ではあったが、その「クーデタ」劇のあまりにも「陰惨」な描写に、「何で、こんなに『リアル』でなくちゃいけないの?」と思うと、眠れなくなったことを、今に憶えている。まるで「劇画」なのだ。 

3 わたしは総じて新しがり屋だ。一冊、「本」を読むたびに、「時代小説」や「漫画」であろうと、ときには漫画にこそ、大きな「刺」激を受けてきた。「軽薄」という誹りを免れえない。たとえば、安彦良和『イエス』や『ナムジ』をはじめとする「神話」の劇画に興奮する。司馬遼太郎の諸作品は、言うに及ばない。 

4 それで、一足飛びにいっておう。 第1、時代の画期を示すと思える、わたしが決定的に影響を受けた諸「作家」(歴史家)の「作品」を基軸にすえ、その「意味」を明らかにする。 第2、大口を叩くようだが、日本「正史」といえるものを獲得するために、日本史を包括的に理解する筋道を示す、「異例の日本史」の一端なりと例示できうれば、幸いだ。ま、大口はこれくらいにしよう。
 〈序〉である。一読、笑覧あれ。