読書日々 695

◆141024 読書日々 695
「専業主婦でいきたい」にほっとしたとき
 結婚して最初にほっとしたことがある。定職がなく、アルバイト収入だけだった。妻は、友人が見つけてくれた尼崎の小さな鉄工所の事務員として働き出した。1970年のことである。一年半後に妊娠がわかった。72年の9月には子どもが生まれる。わたしはまだ「なにごと」も残していなかった。研究職に就くことは絶望的だったが、あきらめ切れていなかった。「当分共稼ぎかな、家事育児も分担かな」と思えた。妻に、共稼ぎか、専業主婦か、と聞いてみた。専業主婦がいいという。「ホッ」とした。18歳から10年余、単身生活をしてきた。21歳からは自炊である。育児は未経験だが、家事ならいやではない。だが、妻が専業がいいという。稼ぎはわたしが担えばいいのだ。非常勤講師の口を増やせば、妻の稼ぎの分はカバーできる。当時、女性の給料はそれくらい低かった。
 このとき、わたしの「研究」生活が、本格始動したのではなかっただろうか。それまでは「研究」時間に余裕があった。バイトで、研究する時間がほとんどカットされる。勝負は、夏休みと冬休み。それに、毎日の「細切れ」時間。とくに早朝と、通勤電車のなかが勝負だった。それで、夏・冬休みは、家族には帰省してもらった。1年、3カ月、完全に家族とお別れである。1972年以来、育児に手を染めたことはほとんどゼロに等しい。
 「育児」が重要なことは、いうまでもない。わたしは甘やかされて育ったが、両親の手がかかってのことではない。家業は雑貨商で、基本的には夫婦共稼ぎである。父母とは、朝食が一緒のとき顔を合わすだけだ。ずっと自分の時間割で生きてきた。家庭をもち、家事育児となると、自分の「時間割」ではやっていけない。しかし妻が専業主婦をやるというのだ。それから40年余、わたしは「自分の時間割」で生きることができた。第一の幸運ではないだろうか。何、金が足りなかったら、これまでよりも余分に働けばいい。この便法(convenient method)でやってきた。もちろん、育児も家計(財布)も妻が管理する。子どもの「学校」にいったことがない。
 72~74年、夏冬を出産等で実家に帰省してもらったおかげで、訳本1冊をだし、研究書1冊を書き上げ、出版することが決まった。74年の春、上六で、結婚してはじめて映画を見たが、もう実家に戻らなければならないだろうな、書きたい本を書いて出せることになったのだから、研究職につくことにあきらめもつくかな、などとぼそぼそ話し合ったことを憶えている。上阪して15年目、結婚して4年のときで、わたし(たち)はまだ「なにもの」でもなかった。その年、友人がポストを用意してくれる等とはまったく予想すらしていなかった。
 あらためてこんなことを書くのは、「育児」の重要性をいいたいからだ。なんだ、おまえは育児をしなかったじゃないか、といわれたら入る穴もない。アルバイト、研究活動、政治活動をし、まともに眠ると、かーるく24時間を超す。就職して「定(低)収入」が保証されても、アルバイト(非常勤コマ)数は減らなかった。減らすわけにはゆかなかった。子どもが3人になったこともある。朝6時に始発電車に乗り、夜12時に終電で駅に着く。それが大阪方面への週2回のアルバイトだ。朝6時台の電車に乗り、夜11時台に帰宅するのが、津の本務校(夜間もある)へで、週2回である。
 でもこの子どもの成長期、ド田舎である。同じ年の遊び仲間がいるのだから、自分のガキ時代と同じじゃないか、自由時間の時代だ、いいな、と思えた。貧しくてもガマンできる。いや、貧しいからガマンできたのだ。貧しさが普通だからだ。
 それでも定職だ。昇級があり、定期昇給がある。中古だが、自家用車をもった。建て売りのローンを払えてた。クリスティではないが、毎年、単行本1冊書けるようになっていた。
 最近、上の娘が「出産」休暇を2年あまり取り、今年復帰した。その間、義息が3度職を変えた。それで賃貸マンションくらしができるという。目もくらむほどいい時代になったのだな、と実感する。他方では、出産なら、出て行けといわんばかりの、マタハラ職場がまだまだある。後者のほうが劣勢になってきた。ただし、わたしの場合は特殊だが、「妻の専業主婦でいきたい」にほっとしたし、感謝もしている。