◆240906 読書日々 1661 日本の独立自尊
一気に涼しくなった。今日のそんな明け方、異様な音で目が覚まされた。朝、5時前である。……。ただし、いつもは目覚めて、起き上がっている時刻だ。隣のビルから車で出る時の騒音らしい。ま、いいかと思い、起きてパソコンを開いたが、なんだか頭に霞がかかったような感じがする。寝たりないわけじゃないだろうが、やはり歳か。
1 日本人の多数は、自民党を保守党と考えている。じゃあ。自民党は、「なに」を保守しているのか? そもそも「保守」とは何か? これが単純明確ではない。それに「保守」と「革新」は、私もいろいろな「定義」に出会ってきたが、原理的にも、事実上も、「対立」関係にあるわけではない。……問題は「何」を保守するかにかかっている。
昨日、プライムニュースで、井上逹夫(1955~ 法哲学}と先崎 彰容(あきなか 1975~ 日本思想史)が、保守の「共通感覚」と日本はなにを「保守」するのか、と鋭く論じた。ま、わかる人には、すっきりわかるが、「哲学」と「政治」は、同じテーマを論じても、アルチュセールが断じたように、哲学は「分断」し、政治は「接合」する。井上や先崎の「哲学」を詳しく検討したことはないが、西部邁とつながることは、二人の口舌からわかる。
西部は、アメリカニズム(産業主義と民主主義の二頭立て)からの独立(自立)以外に日本の保守政治はあり得ないと述べ、自民党の「革新」をこそ主張した。
2 ただし、西部(邁さん)をその著作と個人関係から類推するに、日本の「独立」の可能性と現実性の狭間で、格闘したが、むなしかった、という感慨をわたしに残したように思える。理論上は寛容であり得る西部が、実践的には「不寛容」であった、ということか。それあるか、多くの人に、対立的な人物像を結ばせたかもしれないが。
私は『福沢諭吉の事件簿』(1~3 言視舎 2019)で、「最後」に、三宅雪嶺、司馬遼太郎、西部邁を「対論」者として登場させ、「富国と強兵」をテーマに、諭吉をテーマに存分に論じさせた。3人とも、日本の独立自尊をテーマに論究した作者であった。