..◆150220 読書日々 712
ピケティは世界政府なぞをめざすべしなどというの
暖かい日が続く。「極寒」の2月なのにだ。おそらく私の経験の範囲で、こんなに暖かく感じる冬ははじめてではないだろうか。
1 アメリカのマイケル・ザンデル教授の「正義」の講義がはやったと思ったら、フランスのトマ・ピケティ教授『21世紀の資本』(みすず書房 2014/12/4)が人気になっている。こちらは21世紀のマルクス(気取り)というところか。二人のバックグランドはよく似ている。
ピケティは「消費税」増税に反対し、「格差是正」を世界的に実現する、累進課税(富裕税)を提案する。まさか世界統一政府などを想定(前提)しての提案ではあるまいが、完璧な「空論」である。この本が売れるのは、世界には厳然たる格差があるからだ。格差のない社会など、人間の社会ではない。否、世界に同じ二つのものはない、というライプニツのモナド論をもじるわけではないが、「格差」も「差異」もある。
特に堂々と格差の存在を見せつけているのが、ラテン系の国々である。フランスもその一国である。「正義」のない国に正義論がはやり、貧富の差がある国に格差是正論がはやるのはわかる。しかし「正義rightは力powerだ」ではなく「権力powerが正義rightだ」と同じように、率直に、「資本capitalをなくせ」「権力を打倒せよ」といえないところが、可愛い=可愛そうだね。官庁エコノミストにもなれなかった経済評論家が、ピケティを絶賛したいのはわかるが、「資本」は、マルクスも認知していたように、人類とともに古いし、したがって資本家なるものも人類の消滅まで存在するんじゃないの。ま、岩井克人の受け売りだ(とは云いたくない)が。
2 哲学者の三宅雪嶺が、1933年から敗戦時まで、「帝都新聞」に時局に絡む隔日コラムを書き続けた。それが10冊(+1)残された。すごいというほかない。三宅の『同時代史』(岩波書店 全6巻)には多少光が当たったが、このコラム集に多少の光も当たらないのは口惜しい。
1935年、三木清が「読売新聞」(夕)に「一日一題」を書き始めた。それが『時代と道徳』として刊行され、その他のコラムとともに全集16に収録された。その量が半端でない。ところで三宅の10冊は希少価値で高いが、三木のコラム全集は通販で1円である。あっと声を上げそうになった。もちろんすぐ注文した。
コラムは時代を映す鏡だ。三木が最初の書き下ろし『歴史の哲学』(1932)で、「事実」の歴史=現在に最も接近した「歴史」を、歴史の「創造力」と見なしている。田中美知太郎の『文藝春秋』の巻頭コラムをまとめた『巻頭随筆』(1984)は、保守系論客によってよく引用、参照されるが、やはり座布団に正座しての議論に終わっているとしかいいようがない。対して三宅や三木のコラムは、極から極に時局が揺れ、その揺れのなかを正論で突っ切ろうとするのだから、危うい。誤ることを恐れていては、書き続けることはできない。それが歴史の瞬間ともいっていい「事実」に寄り添ったロゴス(言葉)の営みだろう。
3 いま10部「大学哲学=純哲」を書いている。ようやく半分を過ぎたところだ。しかし次に書く9部「雑知の哲学」が、ぼんやりしている時も、気になって仕方がない。「知の巨人」などというと、すぐ立花隆を思い起こす。その先人として加藤周一もいた。そういえば、吉本隆明も一時そういわれたっけ。南方熊楠もそうだ。
でも「雑哲」はもっと「雑」であった方がいい。人生相談に膝つき合わせてつきあえるぐらいの人でなくては、と思える。立花が、世界文学全集は10代で終えたなどといいが、「雑知」には向かないのでは。
たしかに鶴見俊輔や桑原武夫は「雑知」の持ち主だ。雑知でいいという思い切りもある。でもこの二人とも、思いっきりの知的エリート(意識)で、いわゆるジェントルマンである。雑知が好きだというだけでなく、宮本常一のように、あるいは山本夏彦のように、雑知から出てきたというような人はいないのかな。