◆150717 読書日々 733
柿木ヒデ『神谷美恵子』を再読する
1 7/11(土) 紀伊國屋書店(ロビー)で、「寒がりやの竜馬 トーク&サイン会」があった。司会は井上美香、トーク相手は不破俊輔さん。まずは、足を運んでくださった人たちに感謝したい。またサイン間違いをした人たちには、不注意というか、不熱心を謝りたい。紀伊國屋さんには、三度目のお力添えをいただいた。何もかも、井上夫妻たちが手配りをしてくださったことに、また出版社・言視舎の社長、杉山さんの遠路はるばるの営業を含めた奮闘に、感謝、感謝である。
なによりもうれしかったのは、ひさしぶりに顔見知りの方たちにお会いできたことだ。わたしもいつも通りハイになり、饒舌になり、毒舌になった。わかっているけど、やめられない。お許しを。
坂本龍馬の一族には、数奇な運命をたどった人たちが多い。滝川在住の不破さんの話では、近くの浦臼で、坂本直寬(土佐の坂本家を継いだ、龍馬の姉の次男)が「偉人」扱いされているそうだ。直寬さんは、開拓に入った浦臼で、「村八分」の扱いを受け、「脱出」を余儀なくされた。……。この遅れてきた「志士」で、土佐の自由民権運動の生き残りは、キリストとともにある園を建設しようとして、浦臼に入ったのだった。
ただし、司馬遼太郎『竜馬ゆく』や津本陽『龍馬』の長大長編小説以外は、龍馬ものはほとんど売れたという実績をきかない。司馬や津本の作品のリョウマが面白い、面白すぎる、ということもあるが、リョウマをビジネス上手の男、現代にうんと近づけて理解可能な男、という二人の理解がゆき通っていることもある。
しかし、幕末、尊皇攘夷の革命運動の火柱が上がったなかで、武士でもビジネス上手な男はいた。その代表が、越前の三岡八郎(「五箇条のご誓文」を書いた由利公正)、薩摩の五代才助(友厚)、土佐の岩崎弥太郎、それに豊後の福沢諭吉である。前三人は龍馬の「コンサルタント」役に預かっているが、龍馬のビジネス下手にはお手上げではなかったろうか。ビジネスには、なによりも「ギブ・アンド・テイク」意識と「契約」センスが必要だが、龍馬にはこれが決定的に欠けていた。
2 新渡戸稲造(小)論を、『修養』中心にすえて、書き終えた。新渡戸は、原(敬)家ほどではないが、南部藩重臣の生まれで、祖父も父も十和田周辺の開拓を実現する大事業をおこなった偉人である。同時に「奇」の人で、二人ともお家断絶の危機に遭っている。
「璉の会」という文学同人があった。その会に属した柿木ヒデさんは、女医であり、東京女子医専で神谷美惠子と同級になった縁もあって、『神谷美恵子 人として美しく』(大和書房 1998)を書いた。内容、装丁ともに素晴らしい本に仕上がった。そこに神谷の「師」(慈父に等しい)新渡戸が登場してくる。
神谷は60年代、「生きがい論」で盛名を轟かせた、精神科医であった。その神谷が、新渡戸を器質(遺伝)性躁鬱症と診断している。新渡戸の生涯に、なんども「奇」としか思えないような、「進退」選択がある。天皇から下賜された金で『聖書』を買ったり、札幌農学校を出て、開拓史に入り、高級官僚の道を歩み始めたばかりで、東大(選科)に入り直し、そこが意に満たないと、私費でアメリカ留学を遂げたり、京大教授のポストを得て安定しかかった時、台湾総督府殖産局長心得(1901~04)を、さらに一高校長(1906~11)、国際連盟事務局次長(1920~26)、太平洋問題調査会理事長(1929)、最期は、33年カナダ・バンフ開催の第5回太平洋会議に出席(客死)というように、なにものかに促されるように「難事」に取り組んでいる。
神谷はこれらの「選択」が、遺伝的な躁鬱症と関連あると看ている。新渡戸は、ほぼ10年をかぎって、「鬱」に襲われ、「定職」を放り出すような仕儀に陥っている。逆に「躁」(神谷は軽いと診断している)のときは、積極果敢になっている。場違いなポストと思えるものも、ほぼ「即答」で引き受けている。柿木さんの著書を再読して、なるほどな、と思えたが、新渡戸論には書かなかった。
谷沢永一先生も、宿痾の躁鬱症に悩まされた。「難しい本」が読めない。話す・とりわけ対談なら何ともないが、一行も書けなくなる。とりわけライフワークとされた「近代文学論争譜」の最後の一章が、頭に霞がたなびいて書けない、「一瞬でもすっきり晴れるなら、そこで人生が終わってもいい」というような口吻を漏らされた。
ものを書くと、やがて「鬱」状態に陥る。軽い躁のとき、ものを書きはじめることが可能だ。だが、どんどん落ち込んでゆく。こういう心の谷間を、新渡戸も、先生も渡り歩いていったに違いない。多少なりと、わたしにもある。