読書日々 481

◆151120 読書日々 481
 リー・クワンユー、日本と日本人のアキレス腱を指弾する
1 『リー・クワンユー、世界を語る』(サンマーク出版 2013.10.15)を仕事で読んで、評した。インタビュー集で、3枚半書くのに、早朝から、午前一杯かかった。
 今年の3月、クワンユーは91でなくなったが、「最後の言葉」といっていいのではないだろうか。たくさんの付箋をつけた。彼は、華人の多いクアラルンプールの政治指導者だったが、アメリカと中国の根本問題を、その国の内部力を起点に説き起こしている。当然だが、なかなかできるものではない。クアラルンプールは、東京23区の広さに、550万の人口を擁し、貿易・交通・金融の要所である。国民一人あたりの所得は、日本より2万ドル多いのだから、驚くほかない。鄧小平は、天安門事件の時、「もし20万人の学生が撃たれる事態になったら、撃て。さもないと中国の混乱は一〇〇年続く」といったことに同意する。イスラム原理主義のテロを封じ込めるために、あらゆる措置をとれ、という。イランが核開発したら、イスラエルの地下庫から、ミサイルが飛び出すことに同意する。カナダの新首相のように、シリアの空爆がパリのテロを誘発した、などという発言を断固としてはね飛ばす。
 クワンユーにとって、日本問題は、アメリカ問題の付随に過ぎないように見えているだろう。日本が「英語と移民」を自由化しないから、グローバル社会でのこれ以上の発展が難しい、という。その通りだ。資本ばかりが、すぐれた人材が集まらない。技術開発のグローバルな発展について行くのが難しい。自国・民族中心で、その傾向は、競争を嫌い、経済成長を第一とせず、軍事を毛嫌いし、地方主権を標榜する、自閉症だ。しかも、高齢化社会にある。アメリカと「結合」(従属)せずに、チャイナには対抗できない、とする。これは、多くの人の主張と変わらないが、クワンユーは徹底している。
 だが、日本語と英語の共存共栄は、どのようにはかったら可能か、は、クワンユーからは少しも聞こえてこない。漢語の国チャイナが、英語に飲み込まれてしまったら、チャイナ文化は有効に保存できるだろうか。その方法は見いだされていない。
 シンガポールは英語を第二共通語にした。国民が自由選択した結果である。失ってはならない民族遺産などなきがごとくなった。シンガポールがグローバル社会の進展とともに、その発展を加速化できた原因だ。わたしは、日本の教育で、英語を第二国語にしても、日本人は十分こなしてゆけると考える。しかしその場合、日本独自の文化をきちんと日本語で教える教育が保証できるかどうかだ。国民に最低でもこれまでの教育量の3割増(英語教育分)を課すことができるかどうかだ。それも現在の教育総数でだ。まず、現在の教育者に英語教育も可能な教育力を身につけさせる必要がある。これなしに、すでに英語ができる教員を増員して、対応することができるだけだ。これじゃあ、日本語を主体とした、英語も修得できる教育は不可能だ。
 移民の自由化は、日本の秩序と安全を損ねるといっているかぎり、不可能だろう。それに、移民が、日本人労働者の職場を奪う、という心性が根強い。自由市場は、有利な地点に、資本も人材も技術も移転する。これを止めることはできない。止めると、自足し、自閉し、自滅を迎える。ことは、日本やチャイナにかぎらない。
2  佐伯泰英『居眠り磐音 江戸双紙』が、06年1月、50・51巻同時発売で完結する。その積み残していた49『意次ノ妄』を読んだ。2004年1『陽炎ノ辻』以来ずーっと読んできた。『佐伯泰英大研究』(日経ビジネス文庫 2009)を書き下ろしさえしたのだがら、思い残すというか、読み残すことはない、という気がしている。でも、ここまで来たのだ。最終巻までつきあう。
3 『死ぬ力』は230枚まで来た。あと20枚。2日のノルマだ。さあ、がんばろう。