◆160129 読書日々 491
ホッ! ホッ! ホッ!
白銀という。今朝がまさにその景色だ。昨夜、あまり呑まなかったはずなのに、うたた寝をして、目が覚めて、取り置きの録画を観た。体が冷え切ったのか、なかなか寝付かれずうとうとしたら、六時過ぎに目が覚めた。妙に、寝覚めのほうは、いい。
1 24日、評伝山本七平を脱稿し、出版社に送った。25日、講談社の編集者と新札幌駅のホテルで会い、最終校正、ようやくというか、早々というか、わたしの手を離れた。すっきりである。
校正終了後、二人で、デュオの5階の寿司屋でつまみ、1時間ほど呑んだ。厚別はわたしの郷里、新札幌駅付近は墓地だった。この寿司屋ははじめて、というか、新札幌で飲み食いしたことはほとんどない。編集者は空港、わたしはひさしぶりにススキノ。
2 27日、言視舎の杉山さんから、山本論に「欠落」がある、とメールあり。「年譜」とあわせて、28日、書き足し、送る。計514枚。あとは短い「あとがき」だけ。時間はかかったが、マルクス、野呂栄太郎、吉本隆明、柳田国男、ヘーゲル、司馬遼太郎に続く評伝になった。ホットする。
3 29日、谷沢永一・二巻選集の下「精撰人間通」の編成プランと原稿(原書)を仕上げて、送った。これこそ懸案であった。上「精撰文学論」は浦西和彦さんの編集で、すでに見本刷りができている。素晴らしい仕上がりだ。多くの人の眼に触れてほしい。谷沢先生の精髄を披瀝する、それがわたしたちの念願だ。
4 それで当面の仕事「読書論」(青春出版)に打ち込もうと思うが、31日まではぶらぶらしたい、と思う気持ちがある。でも、なにか(something)をしてしまう。貧乏性だ。ま、この読書論は「苦行」にはならないだろう。すべてのテーマが「手中」にある感がするからだ。「熟読」すべし、「忘却」OK、デジタル社会は活字社会、「教養」の一大変化、1970年以前と以降、読書子=君子=知識人→読書人=大衆知識人=ビジネスマンへの変化がメガトレンドになる。
5 最大懸案が、『日本人の哲学』全5巻の最終回、4「自然・技術・生活の哲学」である。この巻は、基本文献以外、ほとんど読んでこなかった。自然は今西錦司、技術は吉本隆明、生活は『暮らしの手帖』を主軸に語ろうと思うが、もちろんニュートリノ論には突っ込まざるをえないだろう。今年は、未読分野の本をじゃんじゃん読めるかも。なんていって、漂流、沈没もありうる。楽しみだね。大漂流だなんて。もちろん本の海だ。そうそう、松田龍平主演「舟を編む」を感心して観たが、書くのと編むのとでは、どちらがハードだろう? 何、わたしは、今度の山本論でも、自分の書いてきた文章を「引用」「参照」して、書き上げた。半ばは、「編む」だろう。書くの半ば以上は、「引用」である。ただし、自分の文章からの引用は、「盗業」ではない。犯罪にならない。
人生のほとんどは、前日までの繰り返し、いわゆる習慣である。「温故」である。ただし同じ「日」の反復ではない。わずかながら、1‰以下ではあっても、「知新」でもある。
書くというのは、日々の自分の「知新」を確認する作業である。意外と楽しい。「晩節」に近づいてくると、どんな小さな仕事でも、遺作、遺業に思えてしまう。この「読書日々」がまさにそうだ。
6 こんなつもりでいる。2月下旬、娘一家が横浜から来る。それまでは元気でありたい。3月中旬、74の誕生日が来る。それまでは生き延びたい。できれば、17年3月、75の誕生日までには、『日本人の哲学4』を仕上げたい。それから死にたい。これがいまのところわたしの最上の願いだ。こういう奴ほど、便々と生きる(live in idleness)、といわれているが……。