◆160513 読書日々 776
「未知」を求めて、こどもは道を外す
1 二本の桜、山桜はもうとっくに(?)花を散らせた。だが、一本だけのソメイヨシノはまだ満開を誇っている。ただしうちの染井は、若木のとき、病原菌と虫にやられ、大打撃を受け、ヨコに枝を伸ばす桜特有の姿ではなく、立ち姿だけ、花も頂部だけで、一見貧相に思える。だから美しさが増すともいえる。
フキはぼうぼう生えている。ワラビがもう少しで食べ頃になる。じゃんじゃん生える。うまい。が、かゆくなる。ま、山菜はすべてそうか。酒の肴には最適だ。などと油断していると、飲み過ぎ食べ過ぎになる。
2 昨日、眠くなった。どうしようもできなくなり、9時にはベットに入ったのではないだろうか。異例中の異例である。快眠できたように思える。というか、結果として、午前中の仕事がはかどった。
昨日、長靴を買いに行こうと、女房にうながされ、一緒に出た。2週間ぶりの外出だ。といっても、行き先は北広島の生協である。時季外れなのか、どれも安い。ズックの靴も、おまけに買ってもらえた。
買い物は面倒だ。自分のものも、本を除けば、ほとんど買わない。お土産は、ついぞ買ったことがない。外国に行ったはじめは、女房に買ってきて、顰蹙を買った。花も買わない。もちろん団子も買わない。誰かに土産をもらっても、忘れることにしている。
教え子が結婚するというので、出席をと頼まれた。上野の南端にいたときで、近所だったので、家庭教師も頼まれた関係でだ。結婚式には出ないことにしている。(娘の結婚式にだけは出た。)田舎の人には、依頼を断りにくい。しかも、依頼は、安く加重を常とする。断りにくい頼み事を平気でするのだ。だから、顔を合わせない、これに勝るつきあい方はない。この結婚式、もう四〇年以前になるが、鍋等の大きな引き出物をつけられた。帰りの電車の網棚の上にのせ、そのまま忘れてしまった。
2 わたしは本をたくさん書き、出している。全部あわせると250冊を超えているのではないだろうか。これだけで本箱がいっぱいになる。じゃあ、出し過ぎか? そうではないと思ってきた。書けるときに書かないと、書けなくなる。これが定則だ。
宿便、宿痾というが、「たまって出ていかない」を本意とする。たくさん読めば、どんどん忘れる。たくさん書くから、どんどん書ける。うまくもなりうる。少ししか書かない。推敲を尽くし、鏤骨の文章を書く、といわれる。だが、それは書いた「結果」である。書くのをセーブしたからではない。
じゃあ、おまえはたくさん書いたから、鏤骨の文章、肌に彫って骨に刻むような文章を書いているのか、と問われれば、そうではない。頭をたれるしかない。そもそも、鏤骨の文章などというものに「定型」はない。司馬の文章は鏤骨か? 大西巨人の文章は、鏤骨か。両者とも、わたしには、さっさと読み、じつに明快に頭に刻み込むことができる文章だ。鏤骨を謳って、骨だけの、情味に乏しい、ひとりよがりの文章になる。丸山健二『千日の瑠璃』(1992)のようにだ。そもそも中身がない文章が多い。
3 小説家志望の青年たちに、不遜にも、書き直しをするなら、新しい作品を書け、といってきた。これはいまも変わらない。この「箇所」がわからない。もっとだれにでもわかる表現(文字)で、というバカな編集者がいる。わからない箇所がある、表現に含みをもたす。これらはものを説明する常套手段なのだ。小学一年生に入って、わかることしかいわない教師の話は聞かなかった。中学の教師はもっとひどいのがいた。聞かなくてもわかるのだ。などと偉そうなことをいっているのではない。人は「未知」にこそひかれるので、その逆ではない。学校で教えないこと、それを求めて、こどもの多くは道を外すのでもあるが。