読書日々 801

◆161928 読書日々 801
菅野道明『縮刷 字源』をもっているか?
 1 『現代随想全集』(東京創元社 全30巻)の端本があった(はずだ)。1960年代、古本屋の店頭でよく見かけた。たしか一冊だけあった。三木清と清水幾太郎の組み合わせだったのではないだろうか。後に三木も清水もかなり読んだので、この端本のことは自然と頭から離れた。今日(10/28)ざっと探したが、見つからない。徒労というほどでもないが、やはり二度ほど処分した中に入っていたのかも知れない。
 この随想全集の便利なのは、時に、おやっというような文章が入っているからだ。それに年譜が入っている。今、わたしの手元にあるのは、29巻の露伴・鴎外・漱石集だ。露・鴎・漱と並んでいるが、露伴と漱石は同じ1867年生まれで、東京一中では同期であった(といわれる)。中退している点でも同じだ。漱石は徴兵逃れで岩内に本籍をおいた。露伴は大学に進まず、電信修技校に入り、19歳で余市の電信局に赴任した。ともに、税と徴兵が免除された時代の北海道と縁がある。
 鴎外は二人より5歳年上で、長男である点でも2人と異なる。鴎外は、「余技」で小説や評論を書いて、軍医総監まで上り詰め、力余ってか、ゲーテ『フアウスト』とともにクラウゼビッツ『大戦学理』(戦争論)を訳している。鴎外は、石見の津和野藩医の家に生まれ、11歳で出京、西周(陸軍大丞 哲学という訳語を造った)邸に寓した。後に鴎外は、この大叔父に当たる西周傳を書くことになる。
 ま、三人とも間違いなく「天才」だ。といっても好みがある。鴎外は、わたしなどがいうのもおこがましいが、何事をも深く詮索することをしない、最速仕上げをこととする生き方・行き方をしたくせに、深理と麗華を究めたような書き方をした。通俗や野卑を避けて生きた(かのような)人であった。もちろん、滑稽本や読本など手に取らないようであった。(読んだら感染し、低俗に堕すなどと思っていたに違いない。)
 この鴎外や漱石と、『努力論』だけでなく、『普通文章論』(易しい文章作法)をさえ書いた露伴とは異なる。ただしいいたかったのは、露伴の漢学の素養についてだ。この随想全集に露伴の「一貫章義」(1938)が載っている。これは『論語』の「子曰、参乎、一以貫之。曾子曰、唯。子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣」(里仁第四)という一文を、解説(125~171頁)したものだ。キイワードは「忠恕」で、(新)全集の28巻に入っているが、もともとは文部省教学局の委嘱によって書かれたものだ。すぐのち、岩波の随筆集『竹頭』に、そして『論語 悦楽忠恕』に納められ、戦後、『随想全集』に入れられたのである。というか、わたしは、露伴、漱石(角川・伊藤整解説)、鴎外全集をもっているが、露伴全集の「後記」(解題)を見て、別に読むわけではないが、新たに入手したわけだ。
 2 露伴の「悦楽」も「忠恕」も、随筆といいながら、このたった二文字の語義「注釈」である。大学の専門課程に入って、最もつまらなかったのは、「演習」であった。ドイツ語と英語、それにギリシア語とラテン語をまじえた読解演習だった。ま、学生の質が悪かったのか、「語義」に対する注釈は、Schicksal(運命)、schcken=sennd、送る、使いに出す、という水準のものだった。主語は、神、主人で、当人はその行き先を自由にすることはできない。こういう程度でも、わたしは感得した。
 もしこれが露伴だったら、どんなに学生の知識が劣悪でも、『努力論』の「運命と人力」ていどには、論じたに違いない。ギリシア、中世から下って、英独仏の代表格の「運命」観程度は、最低限度モンテーニュ『エセー』くらいには、言及してくれたに違いない。露伴に習ってもよかったわたしたちの先生と露伴との違いは、漢学の素養の違いであった。分かりやすくいえば、わたしの手元にある『角川 新字源』と書庫にある菅野道明『縮刷 字源』との違いだ。菅野の辞書は、わたしのものではなく、義父の父親のもので、「昭和七年京城にて購ふ」とある。義祖父と義父とわたしとの世代差は、使う辞典の差で簡単に測ることができる。私の息子の時代、教育勅語も、論語も、暗記する必要はない。検索すれば、出てくる。ただし、少し手間暇いるが、原文を打ち出そうとすると、おのずと書き下し文になる(から面白い)。