読書日々 1642 愛他論  パウロは最新ビジネスの行動原理の発案者でもある 

◆240503 読書日々 1642 愛他論  パウロは最新ビジネスの行動原理の発案者でもある
 連休に入っている。好天が続く。気分はいいし、「仕事」も捗る(?)。ただし、トレースすると、二重手間をしているケースが目立つ。錯誤というよりも、繰り返しのようなケースを見いだしては、げんなりする。頭がクリアーでなくなっているせいに違いないが、自動調整機がないのだから、困ったなで、「訂正」するしかない。
 昼前にノルマを終え、昼はゆったり、夜はTV、と一応時間配分をしているが、何か融通が利かないというか、時間感覚も麻痺しているのか、あっというまに、今日もすでに2時近くになっている。
 1 歴史には、大失敗があって、はじめて、正気に戻る、という事例に満ちている。これは個人の歴史にも当てはまる。ただし、個人史では、大失敗と思えるようなことは、のちのち「好機」の因になるというようなことが起こる。
 伊藤博文は、吉田松陰の塾生の一人だった。先生から、「俊輔」という名さえ貰った。ただし、高杉の下僕のような身分に甘んじていた時期で、それゆえもあって、高杉の信奉する松蔭を仰ぎ見ていた。しかし、のちのち、長州出身者が松蔭の弟子であることを自慢げに口にするのに対して、伊藤は塾生であった、とさえ口にしなかったそうだ。理由は、松蔭が伊藤に「俊輔」という名を与えながら、「周旋屋」とみなしていることを知ってしまったからだった。周旋屋は信用してはいけない、というのが松蔭の見識なら、自分も松蔭の弟子ではない、としたのだ。
 2 伊藤は、韓国統監のとき、軍の韓国併合主張に反対した。だが日本政府は併合を「決定」したため、伊藤は統監を辞任する。直後、伊藤暗殺が起り、日本は大元勲暗殺を理由に、併合を強行した。
 もちろん、併合にもいろいろある。米国のハワイ併合(征服)と小笠原併合のケースは違う。その小笠原が米領から日本領となったケースともちがう。伊藤が韓国と日本の歴史を比較検討して、「併合」は無理だ、無益だ、と見なした。わたしは、伊藤の見識を是とする。長州の松蔭もその弟子たちも、朝鮮「侵略」を主張していたのとは、真逆に思える。
3 愛他論  パウロは最新ビジネスの行動原理の発案者でもある
 ビジネスは競争だ。食うか食われるかである。そうじゃない。互譲なのだ。ギブ・アンド・テイクである。こういわれる。しかし実際は、経済学の父アダム・スミスが言うように、競争と互譲はたんに対立する別物ではない。自利と他利が競いつつ協調し合ってこそビジネスがスムーズに進行しかつ活況を呈する。だから、昨今の自利を計るばかりで、他利を省みない超ビジネスが簡単に馬脚を現し、蹉跌を踏むのは自然のなりゆきである。ここで自利=自愛、他利=愛他とおきかえても同じである。
 では自愛=自利のみはもとより、「愛他」=他利のみの思想はビジネスにとって有害あるいは無益であろうか。これを考えてみよう。
 「愛他」を徹底的に説いたのはイエスである。その「愛他」の教えを特記し、説き広めたのはパウロである。キリスト教の中心思想はパウロによって確定された、といってもいい。ところがこのパウロ、なかなかに複雑なのだ。
 パウロはユダヤ教徒で、はじめはイエスとその信徒を弾圧することに熱心だった。ところがその弾圧の旅の最中に、イエスが「現れ」、聖霊に満たされて、覚醒し、回心を果たし、イエスの教えの熱心な伝道者になった。かくしてパウロは、イエスの信徒からは変心者と疑われ、ユダヤ教徒からは裏切り者とされ、信用をえることができず、孤立する。このパウロの「弱い」立場が「愛他」を徹底的に説く動機にもなったといっていい。
=愛は忍耐強い。情け深い。妬まない。自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自利を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義ではなく真実を喜ぶ。すべてを忍び、信じ、望み、耐える。=
 ここで重要なのは、愛は心の問題ではなく「行動」であり、行動だからこそ私たちはみな間違える、この間違いを許すことからはじめよう、ということだ。寛容である。
 では「寛容」とはパウロにおいて具体的にどのようなことなのか。
=私は、誰に対しても自由な者だが、すべての人の奴隷になった。できるだけ多くの人をえるためである。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人をえるためである。……弱い人に対しては、弱い人のようになった。弱い人をえるためにである。すべての人に対してすべてのものになった。何とかして何人かでも救うためである。=
 このような「寛容」はまたもや「迎合」であると非を鳴らされた。しかし、パウロは「君たちは間違っている」とはいわない。イエスの信仰を広め、救済をもたらすためだ。
 この「自由だが奴隷になる」=「愛他」というパウロの行動原理は、最新のビジネスにこそぴったり当てはまるではないだろうか。
 商品に、取引にクレームが付く。たった一台の、たった一箇所の欠陥や過誤かもしれない。しかし消費者からのクレームなのだ。消費者の信用を確たるものにするチャンスが与えられたのだ。まずは消費者の「奴隷」になり、全商品、全取引を点検し直す。
 「愛他」によってパウロはイエスの信徒やユダヤ教徒ばかりか、ついにはローマ人の心もつかむ。ここにキリスト教団の礎石が置かれたのだ。