◆180810 読書日々 894
巷に雨が降るごとく……が気分は晴れ
慈雨だ。といったら雨害に遭った地方には失礼か。猛暑が復活する気配だ。
ところで、まさか地獄の釜蓋が一瞬開いたのではと思えるような喜びごとが、重ねて到来した。
1 井上美香〔北のインデックス〕「異界」(朝日新聞 北海道版 夕)が連載の回を重ね、ようやくというかいよいよというべきか、本領をあらわしてきた。今週回(8/8)である。
井上は、「曜変」をキーワードに、中国文学研究者で特異な作家、中野美代子と、その作品に現れる幻の陶芸家(小森忍)を、野幌原生林を背景にピンどめし、「文学」を媒介にしてこそ成立する新奇(ノベル)ドラマを垣間見せることに成功している。みごとだ。風景を観光視点で切り取る凡百のスケッチとはまさに「異界」にある作品だ。今後も期待したい。
2 井上美香との共著『イノベーション北の大地 北海道』(言視舎 18.6.30))の「書評」(8/9 朝)が出た。朝日の書評欄で最も注目しているのが地方版「BOOKほっかいどう」で、評者は山内浩司、短い言葉で著者を「励ます」を特徴とする。難しい「芸」だ。
わたしは、18歳から41まで関西に住み、北海道に戻って過疎地のど真ん中(長沼・馬追)で暮らし、75でようやく愛郷に戻ることができた。関西ではもう一つの過疎地(上野市の南端)に8年住んでいる。わたしが北海道を量る定点観測地は、①1960年代以前の旧村(白石村字厚別)であり、②「留学」に等しかった「異界」の関西であり、③その関西でも「異境」の三重(現在、東海地方に括られる)であり、④愛郷厚別と⑤30年余住み続けた正真正銘の過疎地・長沼町字馬追(無番地)である。すべて、現在の北海道色とは「異」なるところだ。
わたしのイノベーションに関する人・事例・発想とうの記述は、多くは書物に負っているが、わたしの経験や体験を介している。関西、それも上野(現・伊賀)から見る北海道は、愛郷厚別から眺める北海道とは、共通点がなきほどに違う。がそれが日本だ。実に多様で複雑だ。
評者はときに「独断」も混じると書く。うれしい評言だ。ドグマとは、哲学を研究する者にとっては、過褒の類である。断じるところに「親和」が生れるので、その逆ではない。レーニンの「量より質」(少なければ少ないほどいい)=「分離結合」論と表現は似ているが、「独断親和」(スピノザやアルチュセール)である。
3 さらにうれしいのが拙著『〔コラム〕平成思潮30年史』(言視舎 上下)の出版可の知らせを、8/9にえたことだ。わたしが論壇ではじめて注目されたのが『昭和思想史60年』(三一書房 1986)で、
書き下ろしだ。枕になる本だ(「枕本」)といわれた。平成は長さでいえば昭和の半分以下だ。だが、大正期と同じように激動期である。同じ過渡期の大正の倍の長さだ。
平成時代、物書きとしては「幸運」期であった。書きに書きまくったが、その中心にあったのが、書き下ろしである。枕本を何冊も書いた。その対極に新聞の連載コラムの執筆がある。毎日・道新・東京・日刊ゲンダイと、媒体が変わりながら25年間つづいたのだから、自分でも驚いている。
その多くが「時局」ものである。それをつなぐと平成思想史になりうる。常々そう思ってきた。もとよりジャーナル(日・周報)である。逸脱・誤謬を免れていない。しかし、誤りを恐れたらコラム連載などできない。「歴史」とは「書かれたもの」のいいだ。もちろん「文学」も「日記」もそのうちに入る。重要なのは「修正」できることだ。といっても修正だらけでは、みっともないが。
4 そしてお盆帰省である。長女家族が帰省する。ひさしぶりに(旧)家族が顔を合わせる。ま、わたしは傍で見ているだけに過ぎないが。ただし、今年からは、わたしの部屋は分離独立している。
そして、昨年に続き長沼陽風学園の旧職員が訪ねてくる。昨年は長沼にだったが。