◆210326 読書日々 1031 わたしの処女作と定職
気温が上昇し、部屋の湿度が増し、絶好調のはずであるべきなのに、目がハレーションを起こしてしまって、しばしば作業を中断しなければならなくなっている。雪嶺論の再校にかじりついるからで、誰に文句が言えるわけではない。
それでというわけではないが、わたしの最初の研究論文の紹介を記してみよう。
処女作は、色々な事情が絡まって、誰にとっても率直に語りにくいものだ、ということを前置きにしてしておく。
1 「ヘーゲル『法の哲学』の端初概念」(『待兼山論叢』 大阪大学文学部 4号 65-86 1971.3.15)
これが最初に活字になったわたしの研究論文である。
岸畑豊教授(倫理学教室)の反対(投稿撤回勧告)にあったが、強く押すことで掲載がなった。わたしの記念すべき、しかし苦いが思いのこもった処女「論文」といっていい。同時期、
2 「ヘーゲル『法の哲学』における世界観と弁証法ー「緒論」をめぐるカント・ヘーゲル関係」(『理想』(理想社) 466号 84-104 1972.3.1)を出すことが出来た。はじめて哲学思想誌『理想』に載った「研究」論文である。こちらは飯島宗享先生(東洋大学哲学教授)の推挽によった。
この2論は、わたしが若きマルクスの「意想」に託してヘーゲルを論じようとした、したがって、ヘーゲルの唯物論的読解(改作)を試みた論稿だ。未熟だが、そして現在の境位から測れば、致命的な欠陥を含んでいるが、1970~80年代のわたしの理論的努力の発端となったもので、その歩みはゆきつもどりつで、すげなくいえば、書くこと、それが活字になること、そして業績(仕事)の一端となることを強く念じるほかなかった作品だ。
当時すでにわたしは、先輩・同輩・後輩が研究ポストを得ていたなかで、名だけの大学院生として取り残され、研究者の未来に希望をもつことができなかったが、どこかに光明がある、と信じるほかなかった。信の中心にあったのが、書くこと、書く他ないであった。
3 『ヘーゲル「法哲学」研究序論』(新泉社 1975 275頁)
1 わたしは1970~80年代、左翼運動(中心は思想運動で、『知識と労働』新泉社の編集・発刊等)の末端に加わっていた。どういう経緯からか詳しくは聞くこともなかったが、雑誌の発行元である新泉社の小汀社長が、何かまとまったものがあったら出してやる、といわれた。多分、亡くなられた森信成先生の著書として出た、『唯物論哲学入門』(1972)が「出色」の売れ行きを示していたからではなかろうか?
この本は、大阪唯物論研究会の講座(講演)4回分のテープ起しから、構成、編集、成文化まで、森先生の突然の死に打ちのめされながら、学恩ある先生への追悼の意味を込めて、独力で仕上げたものだ。(もちろん印税その他は遺族のもとに払われた、と思う。)
小汀さんの示唆にしたがって、実現するかどうか判然としなかったが、わたしは1と2の論稿を下敷きに、しかしヘーゲルの『法哲学』を、「市民社会」の内部構成=〈「権利」・「倫理」←「政済=国家」〉の論理構成を展開する書として捉えようという試みであった。ヘーゲルの主著を、いうところの「市民社会」構成体論として読み変えようとした、わたしの文字通りの処女著書である。
当時は、まだ一冊の著書ももたない研究予備軍の一人であるという思いだけは込めたつもりだ。執筆に10ヶ月、当時は完成稿を経て刊行されるまで1年余かかった。
2 ところがこの書は、2つの幸運を運んできた。
1つは、友人から勤務校(法哲学担当)へ来ないか、という誘いである。渡りに船であった。1966年以来、ずっと自活・アルバイトだけでやってきた。70年には結婚し、非常勤講師と家庭教師で、2人の子持ちであった。なによりも定収入が予想できた。2つは、研究に応分の時間を割くことが出来ると予想できた。(つづく)