◆240517 読書日々 1644 真理論 真理とは虚構である
1 夏に突入したように感じられるが、まだガスストーブは付けている。だから、背中が心地よげに暖かい。
昨日、ようやく新稿『藤原不比等と紫式部 日本国家創建と世界文学の創造』(260枚)を脱稿することが出来た。まず、疲れたー、であり、ほっと、であったが、ホットの気分が今日まで続いたのか、この日記を書くのを、念押しするほど強く、わきまえていたのに、今の今まで失念していた。
ただし、理由はあった。1つ仕事を終えると、次の仕事に取りかかる、その手初めとして、「レジメ」を書く。だがレジメはすでに出来上がっている。書名も、目次も、章・節立ても、出来上がっている。だから、書きはじめればいいだけの態勢が、もう10年以上続いていたことになる。
書名は『禁忌の倫理学』で、オーバーにいえば、私しか書かない、書けない代物だ、と考え、何度もレジメをとつおいつ眺めてきたが、書きはじめておらず、いまなお骨組みだけなのだ。
人間に3大「禁忌」がある。①「殺人」であり、②「近親相姦」であり、③「人肉食」だ。この一線を越えると、「お前は、もう人間ではない!」ということになる。ただし、「3大禁忌」のうち、「殺人」は、「法」の対象になって、「禁忌」から除外された感がある。しかし、『相棒』の杉下右京が、「殺人」を絶対犯してはならない「行為」とみなし、その意見はいまなお強い。
でも、哲学科に入り、倫理学を専攻し、多少なり、著作を書いてきたが、「タブーの倫理学」は、倫理学最後の課題だと考えている。では、なぜ人を殺しては、近親相姦しては、人肉を喰らっては、いけないのか? これは解明されているようで、解明されてはいない、ということができる。
この3大禁忌は、なぜ踏み越えてはならないのか? 解答。これ以外・以上にない、人間にとって「最大の快」だからだ。……。ま、しかし、この禁忌論は、「反倫理」の業火をくぐり抜けなければ、如実に書くことは出来ない、そういう類の作業になる。コワイね。
5 真理論 真理とは虚構である
「合理主義」(rationalism)という言葉をよく聞くでしょう。「ラチオ」(ratio)とはラテン語で「理性」という意味です。体験、習慣、伝統、教義あるいは世論をもとに真偽を判断しない態度(マナー)のことで、デカルトが合理主義の親玉です。
スピノザは先輩デカルトの合理精神を受け継ぎました。だがスピノザが行き着いた結論は、一見して意外というか「異例」なものです。どういうことでしょう。
《対象を理解する三種類の認識法がある。一つは感性的認識で、感覚や想像によってえられるものです。これは十全な認識ではない。二つは理性的認識で、理性によってえられるもので、十全な認識です。三つに神の認識で、直観によるものですが、人間には与えられていません。》(神の能力は人間には備わっていません。人間を超えています。)
感性による認識はなぜ非十全なのでしょう。漠然とした経験や世論、あるいは感官(身体)を通してえられるもので、虚偽の原因となるからです。たとえば、昼間見る海が青いのに、夜見る海が黒いというように、その真偽が確かではありません。
これに対して、三角形の内角の和は二直角(180度)に等しい、いついかなる時でも、誰にとっても共通な知見で、真です。しかも、真偽を判断する基準(尺度)として有効無比です。これが理性認識です。
しかし昼見る海が青く、夜見る海が黒いのは、夢や幻なのでしょうか? そんなことはありません。その通り(リアル)に見えます。これとは逆に、内角の和が二直角になるような「三角形」は現実(リアル)に存在するでしょうか? どんなに正確に直線を引こうとしても、現実の直線は必ず歪んでいます。真の「三角形」は観念上のもので、抽象物、つまりは虚構(フィクション=こしらえもの)です。
ここから重要なことが出てきます。
一つ。人間は身体をもった存在です。人間を現実に動かすのはこの身体(感覚器官)に基礎を持つ感情です。個人だけでなく社会(人間の集団)を動かすのは大衆の感情、共通の体験、世論、習俗であり、伝統です。どんなに素晴らしいプランや理念(アイディア)であっても、人の、多数の人=大衆の感情に訴えなければ、机上のプランにすぎません。
二つ。多数の感情はしばしば付和雷同し、暴走します。その前では、正義や法や理念が消し飛ばされます。では理性は無力なのでしょうか? そんなことはありません。理性の力はこの集団感情が行き着く方向を示したり、対立する感情があることを提示できます。
たとえばEUのように、アジアはアジア人で、近隣諸国が共同して、という「東アジア共同体」論があります。多くの日本人の感情を捉えているだけではありません。新登場の福田首相も「東アジア共同体」を外交路線としてキャッチアップしていますね。しかし、不毛悲惨な日米開戦に導いたのが、日本国民の感情をひっさらった「東亜共同体」論ではなかったでしょうか? 「東亜」とは「東アジア」のことです。
スピノザは理性人です。ユダヤ人として生まれましたが、ユダヤ教(ユダヤ人の共同感情)を批判し、進んでキリスト教(西欧人の共同感情)を批判します。そして主著『神学・政治論』の序文に《民衆から迷信を取り去ることは、恐怖を取り去ることと同じく、不可能である。……民衆は理性によって動かされるのではなく激情によって動かされるからだ。……したがってこの本を感情に囚われている人すべてに読んでもらいたくない。》と書きます。
「大衆の敵」として書くのは普通の理性人です。でもスピノザは大衆(大衆の自己統治=デモクラシー)の勝利のためにこそ書くのです。「異例」の哲人といわれるゆえんです。