◆250411 読書日々 1192 禁忌の倫理学
4月に入った。「三寒四温」というヤツで、何度もぶり返しがある。
昨日、昼、床屋に行き、まずいなと思いながら、夜、コンビニにタバコを買いに出た。まさに「足下が暗く」よろよろの態だった。80ウン歳だから当然だが、眼も悪い。「終末」を感じるね。勿論、私的なことだが。それにもまして、次々に、物忘れが激しくなる(らしい)。「らしい」といのは、なにを忘れたのかを忘れるからだ。
私は、「死」(終末)についてあれこれと書いてきた。まとまった(アンソロジー風)ものだけでも、『脳死論』(三一書房)『晩節を汚さない生き方』(PHP新書)『理想の逝き方』(PHP新書)『死ぬ力』(講談社現代新書)がある。
事後談として最もエキサイティングだったのは、『脳死論』を出したとき、とりわけ、西本願寺(京都)の学僧たちと「死」の談義を闘わしたときと、同じ西本願寺(札幌)で「講演」をしたときだ。
その「講演」で、人間の三大タブーに触れ、なぜ「人肉食」と「近親相姦」と「殺人」は、人間が超えてはならない「タブー」なのかを話した。その三つが「タブー」(禁忌=超えてはならない戒め)ないのは、それらが人間の最大「快楽」(幸福=超福)=それを超えると「人間が人間でなくなる)=人間=人類の「存在=存続)が危うくなるからだ、と論じた。
ところが、ひょいと前を見ると、長姉の顔が見えるではないか。私はド近眼だから、しっかりと見えたわけではないが、間違いなく姉だった。
西はオイデプス物語、東は中大兄王をはじめ、近親相姦の事例は数々語られてきた。「人肉食」も、「近親相姦」も、殺人に至っては日常茶飯事に、起こってきた。でも、母と息子、父と娘、……の性交は、鬼畜にも劣る行為である、と忌避されてきた。
大学に入って、文学部の同期生と出した文集に書いたのがやはり母子禁忌の問題であった。私が哲学科に入り、「倫理学」教室を選択した一つの理由が、「禁忌の倫理学」だった(?)
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読書日々 1191 岩波書店で、1冊分書いた
◆250404 読書日々 1191 岩波書店で、1冊分書いた
視力が落ちたので、明るい照明がつらくなったが、何、TVは見ている。裸眼なら文庫本もいとわない。もっとも、自著を読む機会が増えた。これも「耄碌」の一つか! 自分の書いたものの足下が暗くなったのか? まずいね。
朝から手をつけたい事例があったが、結局、岩波書店で書いた長めの3本と書評の連載を集めて1冊にする作業(校正)を行った。総題は『インビジブル・カレッジ』。岩波書店の『思想』は、私が書きはじめ(70年代前後)の時代、まだ権威があった。80年代、私は、どんな注文であれ、注文があれば、応じて書いた。総計、かすかす1冊になるていどの論稿+書評(1年分)を書いた。どれも面白く書いた。まだ若さが抜けきっていなかったので、それも「地方」育ちだったので、多少皮肉を込めて書いた。勿論、岩波である。「検閲」めいたものはなかった。しかし、書評の場合は、右翼的論客とみなされる著者の本を取り上げると、「読者」欄に、すぐ「こんな政府を支持するものの本を取り上げるなどとは何のことか?!」というような意見がのった。編集者も大変だなあ、と思えた。
ま、あまり売れない著者のほうからは、逆に、編集担当者から、一覧表をめくられ、売り上げ〇×%と、よく言われた。ま、私はわんさと本を出してもらった方だが、売れ行きも気になった。今もなる。印税があるからでも(多少)あるが、1冊になったことによる。
岩波は、稿料がよかった。心底ビックリした。その上、私の友人のなかには、本は岩波・中公(文庫・新書)と考える人がいた。多少ひにくっぽくほほえんだのがいけなかった。お前には、岩波も中公もないくせに、という顔をされた。
私の先生筋の渡部、谷沢さんは、岩波を立体的に追撃したが、中公には「好意」を持っていた。私のも中公新書に2冊入っているが、すぐに「絶版」になった。……
こんなことを書いても、何にもならない。でも書いてしまうところが……
読書日々 1190 憑依されるほどに
◆250328 読書日々 1190 憑依されるほどに
体調が戻るに従い、TV三昧ともいかない。もう一度、司馬さんの本をぼそぼそと読もうかなと思ったが、吉村昭の方がよくないんじゃないか、などと思ってみても、吉村さんは、顔も、趣味も、ほとんど同じというか、ただし、生活でも仕事でも、死線を何度もくぐった吉村さんと私じゃ、境位があまりにも違いすぎて、「失礼!」に、と思えてしまう。
それにしても、司馬さん『坂の上の雲』NHKTV版(再放送)は、がっくりだった。初見の時、これほどとは思えなかったが、直木賞作品の映画化『忍者秘帖 ふくろうの城』(1963)より、さらに「駄作」になっていた。これこそ、もったいない、だ。
私にかんするかぎり、やはり、できるかできないかはおいとくほかなく、「いま」やりたい仕事をするにしくない。ま、愚知は今更ながらだ。みっともない。何の糧にもならない。
「昭和100年」、面白いことに、ほぼ10年ごとに、転換期があり、「言葉」の人が登壇している。
そんなにきれいに10人=10年とステップを踏む必要はないが、もう一度「思想」(言葉)の担い手たちの「回廊」を自分自身の足で、と言うことは、耄碌半ばを覚悟して、披瀝してみたく思えてきた。ま、三木清はもう一度、柄谷行人はきちんと書き残して終わりたいね。
それにしてもずいぶんたくさん書いてきた。
厚ければいいわけではないが、①『昭和思想史60年』(三一書房 1986)以降、何冊に上るだろうか? ②『吉本隆明論』(三一書房 1900)③『現代思想』④『人生の哲学』(海竜社 2006) ⑤『日本人の哲学』(全5巻全10部 言視社 2012-6)でピリオドを打てると思ったが、『福沢諭吉の事件簿』(全5巻)を、そして日本哲学・思想・言論の至宝、『異例の哲学 三宅雪嶺』(言視舎)を残してしまった。龍馬と諭吉だけは、多少自分自身の目と足で調べた。一時期、龍馬や諭吉、それに雪嶺ご一統に憑依され、地獄に引きずり込まれた。笑えないが、南無阿弥陀仏!……と唱えていた。
読書日々 1189 「雅」を残す近藤正臣
◆250321 読書日々 「雅」を残す近藤正臣
1968~70年、大学院(哲学科)の学友たちがほとんど就職していった中だった。
「全国大学闘争」の最後の火が燃えさかる中で、阪大全学大学院協議会議長の引き継ぎ手がいないなかだった。ぽつんと取り残された当時の心境を、いまなおうまく語ることができない。
大阪工大や
経済大で非常勤講師をやりながら、家庭教師も続け、東奔西走の「超」多な毎日を送っていたのに、昼間は一人のときが多く、TVをよくよく見ていたように思える。
そんななかに、「柔道一直線」があった。主役は桜木健一だったが、ニヒルな柔道「青年」がいた。この作品で「ブレイク」(?)した近藤正臣で、すでに28歳、私と同じ歳だった。近藤は、どんな役でも器用かつ「陰惨」極まりなくこなす京都出身の美男役者で、最も印象的だったのは、司馬遼太郎原作「国盗り物語」の明智光秀、藤沢周平原作(この作品で藤沢はメジャーになった)「腕に覚えあり」の石森左門役で、「龍馬伝」の山内容堂役も忘れえない。
その近藤が、郡上八幡に家を「建て」、2017年からは、完全移住、川の畔に住むようになった。妻が、幼なじみの結婚相手(ひこ)で、そのひこが認知症にかかり、1年半前になる。
その後の独居生活ぶりがドキュメント番組(3/20)になった。
(わたしなど、妻が亡くなったら、その日のうちにへたり込む。しかし、子供とは同居したくない。否、してくれないだろう。)
近藤の立ち居振る舞いをカメラ越しに望見。骨と筋・シミだらけの完全なジジイだ。というか、痩せている。しかし、近藤、郡上八幡の住人にもなっている。京都人の「雅」を残している。
どこに行っても、住んでも「根無し草」同然の私とは大違い。1970年結婚し、池田の石橋に5年、75年津短大に職を得て、伊賀神戸に8年、札幌に戻って2年で父が亡くなり長沼に、そして2016年、家郷厚別に戻った。「根無し草」のように過疎地ばかりを選んで住んできたのは、私だった。
よくよく近所の人に言われた(と思える)。「お宅の旦那さん、いつ学校に行くの?」
読書日々 1187 84回目の誕生日に
◆250314 読書日々 1187 84回目の誕生日に
昨日は私の84回目の誕生日であった。上の娘が前日の12日なため、また私の不在が多かったため、私自身の誕生祝いはほとんど記憶に残っていない。今回は息子と規子さんと三人で、かなり充実した「晩餐」(ただし和食)を迎えることができた。有り難いことに費用は息子持ちだったそうだ。
私の前半生もかなり変動激しかったが、息子のそれは一層激しく変化したように思える。最大のものは、アメリカに留学して、コンピュータ社会の「洗礼」を受けたことだろう。
高校・大学・学部は私と同じだったが、イサカに進んでコンピュータ技術・社会に足を踏み込み、日本に戻って、どうにかこうにかその社会の住人になったようだ。50代、まさに新しい仕事口を得て、張り切っているように思える。
私が初めてパソコンで一冊まるごと書いたのは、『吉本隆明論』(三一書房 1980)であった。自著、27冊目だったが、海の向こうの息子の手引きなしにはとても不可能だったろう。そうそう、ハンドタイプのゲート・ウェイを何台潰しただろうか。このあと何年かは、吉本の「文章」が、ほぼ打ったままに出てくるのに驚かされ、ベストセラーとなった『大学教授になる方法』(青弓社 1991)の「文章」に乗り移っていったように思われる。
「団塊の世代」の「子弟」に当たる」コンシューマ世代と言われる私の息子・娘たちは、猛烈な就職難に襲われ、三者三様、何度も職場を変わり、それでも30~20年、耐えてきたように見える。わたしなどは、「非常勤」にしがみつき、常勤になっても、高校卒並みの給与に甘んじ、それでも読みたいものを読み書きたいものを書き続けざるを得なかったが、しかし、それこそ「薬」になっていたように思える。
それでも「幸運」だったのは、出版業界が10年遅れで「バブルの崩壊」を迎えたことだろう。私が、『日本人の哲学』『福沢諭吉の事件簿』『三宅雪嶺=異例の哲学』(すべて言視舎)の晩期三部作を出す余裕も、その「幸運」の故だろう。