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読書日々 1637 好色女の物語 

◆240329 読書日々 1637 好色女の物語
 1 3月は苦手だ。ずーっと「学校・大学」に関与してきた。70で定年退職後も、私の「日常生活」は、スクールと関係してきたときのスケジュールと、基本的にかわっていない。
 5時起床。コーヒータイムと朝食時間を除いて、2時まで仕事(work)。5~6時夕食。夜はTVと飲酒。定年までは、学校以外、注文仕事、やりたい仕事に傾注。ま、出校日は、夜、ススキノ等で、リクリエーション(主として飲酒)。40すぎてから酒を本格的に飲み出したが、もう十分「背負い水」を飲んだはずだが、まだ細々(?)と飲んでいる。それに、定年後に喫煙をはじめた。いまはピースのライトで、4日に1箱をペースにしている。
 ただし、スケジュールは変わっていないが、スピードは、パソコンを叩く速度の急低下にこうおうし、遅くなっている。ほぼ3分の1へだ。
 3月は、「学校」がない。オール「休日」状態で、ペース配分がフラットで、変化がなかった。かつてはこれが、歓喜だったが、現在は定番。面白くない、といいたいのではない。17年以来、こちらが定番、マイペースとなったのだ。
 2 本を持ち込まないと、スムースにゆかなくなった。トイレのことで、いまはハルノ宵子『隆明だもの』(晶文社)、これは初読、林望『帰らぬ遠い昔』(講談社 1992)、読んでは忘れる内容でまだトイレ台ある、そして3度目の宮脇俊三『汽車旅12カ月』潮出版社 1979 あとがきに、編集者背戸逸夫が出てくる)だ。私もよくよく各駅停車に乗ってきたが、宮脇さんの本は、なん度読んでも、どれを読んでも、ピーンとくる。
 3 「光る君」は、どんどん面白くなってくる。それにしても摂政家の姫君が、婿候補の道長に食らいつくさまがおかしいというか、凄い。『日本人の哲学』第1巻で、こう書いた。
《△「色好み」
 『源氏物語』では光源氏をはじめ男たちがさまざまな女遍歴を重ねる。好色文学といわれる理由である。もちろん相手は女なのだから、『源氏物語』は女たちの愛=好色の物語ともいえる。
 『源氏物語』を光源氏の華麗な性遍歴の一代記として読むことはもちろんできる。この時代、妻の生家に男が通うというのが普通である。源氏は左大臣家の葵の上のところがメイングランドである。ただし、父桐壺帝の妻藤壺の美しさに恋いこがれていることもあって、源氏は年上の妻とはねんごろになれない。しかし「雨夜の品定め」で目覚めさせられたのか、六条の御息所〔みやすんどころ〕、夕顔、帝の后の藤壺、鼻が象のように長い末摘花、朧月夜、等々と次々に契りを結んでゆく。まさに好色のかぎりを尽くすかに見える。しかもその権勢絶頂期には、春夏秋冬の四町からなる御殿を造営し、紫の上をはじめとする妻子たちを住まわせている。妻たちは、それぞれ別町=別殿で、ほとんど顔を見合わせることもなく、独立の営みをしているのだから、徳川期の「大奥」とは異なるが、後宮〔ハーレム〕といってもいい。「好色」文学といわれる理由だ。
 しかし光り輝く美貌で生まれもこの上ない源氏が特別なのではない。源氏の終生のライバルになる右大臣家の頭中将をはじめ、大なり小なり一見すると「女色」に励んでいるのだ。むしろ懸命〔いのちがけ〕であると表現した方がいい。しかし男が好色であり、女が男を引き入れるのには社会的政治的理由がある。
 貴族は有力な家の娘を妻にし、その実家の支えによって出世の道を競うのである。だから「色好み」には政治的経済的理由がはっきりあり、好色でない男は生存競争を勝ち抜くことはできない。もちろん純然たる「好色」もある。「雨夜の品定め」で源氏は中品(中位の階級)のなかにいい女がいると聞き、素性のわからない女(夕顔、朧月夜)あるいは後ろ盾のない女(末摘花、紫の上)とも結びあう。……》
 TVが、何倍も面白く感じられる理由の一端だ。

読書日々 1636 眼は口同様、物を言わない 

◆240322 読書日々 1636 眼は口同様、物を言わない
 やはり3月だ。陽射しが暖かくなったが、日陰に入ると、ぐんと寒い。北風になると、ぐんと冷えてくる。三寒四温と言われる特有の季節だが、札幌の「春」はまだまだ遠いように感じられる。
 1 わたしの上の階に、新住人が入った。およそ1年半ぶりではないだろうか。60代のご婦人だそうで、その娘婿という人に一昨日お会いした。使用する駐車場の雪をかいていた。
 このアパートは、私たち夫婦を含めて、高齢者が多い。私は、昼間、1、2回、新しい空気を吸うために(同時に暖房機を止めるためもあって、そして太陽に当ることを願って)外に出る。雪はほとんど消えた。が、昨日もときどき寒風が突き抜けた。
 ときに、さまざまな年令のひとにお会いするが、挨拶はするが、建てて40年近くなるのに、住人誰それの名前すら知ることなく今に至っている。ま、これが私の性癖だからというのが「言訳」だ。
 2 2016年、長沼加賀団体を離れるとき、昔から行きつけの眼鏡屋に行った。メガネの矯正では、0.1以上は見えないので、と眼科へ行くことを奨められた。目医者は厭だから、運転免許を返上する「口実」が出来た。それに、最後の車は、乗ってみたい最後の車で、しかもハンドルを握った瞬間、「暴走」不可避と感じられた、(最近なぜか話題になっている)日産ジューク(小型で3ナンバー)だった。実際、2度ほど「暴発」したことがあった。すんでの所で「回避」出来、大惨事を免れたが、それで自動車を諦め切ることができた。老人の三種の神器(とわたし自身が言った)、メガネ、車、TVのうち、二つを失った。
 「眼」のことをいうと長くなる。最初、中学で野球部に入り、天気の良い日に、高く上がったボール(野球)を見失った。教室の席は一番前にしてもらったが、中2の時、絵の鈴木先生に、君は眼が悪いからメガネを掛けた方が良い、といわれた。それから、メガネとの長い歴史がはじまった。
 最大の難儀は、NYのホテルで、メガネを割ってしまったときで、「老眼」(読書メガネ)で残りの旅を強いられたときだ。編集者とともに、取材で、SF、ボルティモア、ワシントンDC、テネシーのスワニー、フロリダのオークランド等の大学を、獄夏期に廻った。これには難儀した。
 「検眼」、これが今回の眼鏡屋参上の第一目的だった。検眼の末、0.1までしか矯正不可能、眼科医に行くことを、前回同様奨められた。これで、メガネのことは最後的に諦めることができた。何、本は裸眼で読める。PCは、文字拡大で対応出来る。TVはちょっと困るが、見えないわけではない。むしろ見過ぎなのが問題なのだろうが、人間であるからには、やめるわけにはいかない。「現在」との切実なる接点なのだから。などというのは口実にちがいなく、ただただ面白いからだ。
 3 現在、日本最初の「建築」家、藤原不比等を書いている。藤原氏の「最初」の人で、日本建国期、「歴史」(日本紀)と律令(大宝・養老律令)を制定し、国都にふさわしい平城京をデザインした、皇室伝統と天皇は「統治すれども支配せず」の日本型国家システムとその存在様式を創建した日本最高の政治家と言っていい。
 といっても、「法令」といい、現実の政治過程といい、「例外」と「逸脱」の連鎖と一つながりである。不比等の生前も死後も、その「例外」や「逸脱」をどう「解決」したのか、出来なかったのか、それが私の関心の中心でもある。
 原則(主義)と改良(主義)の組み合わせ、これが現実主義である。その「組み合わせ」に齟齬が生れたとき、どう処理=解決するのか? 現実主義政治の腕の見せ所である。天武が皇太子(次期天皇)と定めた草壁皇子が、20代後半まで皇位継承がならずに死去、持統皇太后が即位する。皇統における最初の齟齬だ。
 最大の難点は、不比等のシステムから、不比等の「鬼子」とでもいうべき「光明子」が生れた。「例外」であり「異例」である。不比等の改良=修正主義があればこそ、光明子は「皇后」に、皇太后となり、娘妃を「皇太子」に、そして「天皇」に仕立てあげ、自らは政治の「実権」を恣にし、唐(周)の則天武后さながらに、政治を壟断し、「社会」を混迷の坩堝に追い込んだ。
 不比等の現実が必要とした「例外」措置、さまざまな備忘策が、不比等の政治ルールを踏み越え、破壊してゆく。でも、メインルートがきっちりしていれば、「旧」(本道)に戻るルートはある。それをこそ辿ってみたい。藤原道長へと続く道だ。
 

読書日々 雪が融ける、隆明はいない

◆240315 読書日々 1635 雪が融ける、隆明はいない
 3月13日は、83回目の誕生日で、前日が長女の誕生日であるということで、私の誕生日は、ときどき忘れてしまう。というか、この月は、むしろ忘れることの出来ない「雪」の記憶とともに、ある。
 1 1968年の3月だ。関西では、どんどん、と春になる。大阪では、造幣局の桜が咲き始める。この年、3月、1週間の「休暇」を貰って、久しぶりに帰省した。札幌は厚別に実家がある。前年末に修士論文は提出済みだったので、気分的には「ホッ」としていた。ただし、大学紛争まっただ中で、大学院生協議会の議長の席が、順送りで私に回ってきて、年明けから猛烈に忙しくなった。東大に機動隊が入り、大学「封鎖」解除の突破口となった。それにどう対処するか、が「問題の中心」になった。
 それでも、もとは祖父の寝間であった広い部屋で、寒さに縮こまりながらも、手足を伸ばしていると、気分が柔らかくなってゆく。父や母は、酒・米中心の雑貨商に張り付いていたから、家には手伝いのおばあさんがいるだけのがらーんとした殺風景な時間が、ゆっくりではあったが長くなる。そういえば誕生日も忘れてしまっていたのではないだろうか。まだ酒を、それも一人で飲む習慣はなかった。
 それに、高校も、そして大学も「厚別」を離れたこともあり、小中時代の友だちもいない。といっても、中学に入ってからは、わんぱく時代はとうに終わっていたが。
 ということで、一度訪れたことのある、野幌原生林に無断入植し、その後、信濃中学の地理の教師になっていた加藤先生のお宅に向かった。ま、私は教師には馴染まなかったが、加藤先生は、小中高で唯一の恩師とよぶことが出来る人だった。「バス停」新野幌から1km入ったところに家があった。娘2人は不在で、大酒飲みの先生と、なにはなくとも酒と肴ということになった。
 どういう具合だったか憶えにないが、先生が、「上の娘を貰え」というので、即答、「貰いましょう」ということになった。この娘が50年余連れ添っている妻だ。次の日、「私は品物ではない」という返事を戴いた。
 この加藤の家には、なんどか3月に窺うことがあったが、決まって雪になった。結婚した翌日も、ドカ雪で、飛行機が半日近く遅れ、新婚旅行はキャンセル。まだ3月、雪はどんどん融けているが、大雪になるかも、という記憶が残っている。
 2 ハルノ宵子(よいこ)『隆明だもの』(晶文社 29231215)を規子さんが購入してきてくれた。まだ開いていないが、楽しみだ。というか、ちょっと以上に恐い。
 学生時代、というか、わたしが最初に書いた本格「評論」が「幻想論の理論的支柱――吉本隆明批判」〔上田三郎〕 43枚(大阪大学唯物論研究会編集『唯物論』、第一集、1969・10・20)である。「堂々」たる「体裁」の論稿だ。冒頭
《革命運動において、十九世紀と二十世紀を区別する指標は何か。前者が、プロレタリアートの資本主義への革命的襲撃の準備期にあたり、後者が、プロレタリアートの資本主義への直接の襲撃の時代、即ちプロレタリア革命と社会主義建設の問題が直接的実践の問題となった時期であるという点で両者は区別されよう。従って、二十世紀における革命的行動の役割に関して、新たな質を持って緊急かつ重大な問題となったのは、歴史的発展の進行に対する党の働きかけの役割、プロレタリアの意識性と組織性というような意義に関することであった。
 戦後、マルクス主義にとって圧倒的に有利な条件の中で、戦前の唯物論(旧唯研派)を客観主義として拒否しつつ、これに代えるに初期マルクスを根幹とする主体的唯物論が展開された。主体性論者の主観的な意図がどのようなものであったにせよ、二十世紀における革命理論を十九世紀における「初期マルクス」で代換するかかる意図は、その論理的、実践的帰結として二十世紀の革命運動がそれなしには貫徹しえない、党派性、科学性、意識性、組織性を不可分に持つ革命理論への敵対物として結実した。「右」は民社理論(猪木正道)から、「左」はトロツキズム(黒田寛一)にいたるまで、かかる主体性論が今なを、否ますます幅広く人民の中へ浸透していった客観的条件は一体なんであったのか。」》
 この論述を否定・修正するために、1975年以降、私は、考え、書いてきた、といっていい。吉本論は、数冊におよぶ。

読書日々 1643 「光る君へ」(2)

◆240308 読書日々 1634 「光る君」へ(2)
 1 寒い日が続く、ようだ。ようだ、というのは、例年に較べれば、どうかな?、と思えるからだ。それに、長沼(加賀団体)にいたときの「寒さ」とくらべると、とんでもなく「暖かい」と感じる。
 2012年3月末に退職になった。それから、年来の望みであり、わたしの仕事の総括でもある『日本人の哲学』を書き、出版することに専心した。
 朝、目ざめる。通常は6時前。妻は就寝中。寒い、というか、窓ガラスは凍てついている。書斎に降りる。いつも、まず寒暖計を確認。そして、PCのボタンを押す。石油ストーブで部屋が暖まるまで、少なくとも10度になるまで、1時間はかかる。でも、仕事は始まっている。
 2 第1巻は、『日本人の哲学』で、源氏物語の紫式部もそのメイン哲学者に入っている。(先週の続きだ。)
 《しかし時代小説としてみれば、源氏のモデルは源高明ということになるだろうが、作者が生きるのは道長を頂点とする藤原氏にとって最後となる「全盛」期なのだ。だから過去の物語に仮託して、「源」など、藤原氏以外のものを権力の頂点に置くべしなどと作者が主張しているのではない。逆である。
 歴史上のモデルは源高明だが、光(光り輝く)源氏に仮託された理想的な人物のモデルとは、のちに「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と歌った道長をおいてほかにない。付け加えれば、光源氏の栄光は一代限りであったのだから、やはり藤原が権勢を集める世がよろしい、ということになる。
 ただし、女(作者)が歴史や政治のことなどを記すのは異なこととみなされていたのだから、「いつの御代のことであったか」とわざと時代は明示しない書き方をして、読む人におのずから、ああ、あの時代の、あの方々のことがモデルになっているのだなあ、と自己了解できるようにしたのである。》
 3 源氏物語は、各種の「現代語訳」やを参照にしないと、とても私の手に負えない。『日本人の哲学』では、最小限の参考文献をあげた。
 ①紫式部『源氏物語』 ②『源氏物語』(古典文学大系14~18)同(新潮日本古典集成全8冊)
 ②谷崎潤一郎・新新訳『源氏物語』(9+別巻 中央公論社 *中公が、谷崎に源氏の現代語訳をさせた理由が面白い。中公への谷崎「借金」を返済のためで、もちろん実(下)訳者がいる。)与謝野晶子訳『源氏物語』(日本文学全集1~2 河出書房 *本書は、その冒頭「誤訳」で有名。)林望『謹訳 源氏物語』全10巻 祥伝社)
 ③『折口信夫全集』(第8、14巻 中公文庫)『折口信夫全集ノート編』(第14、15巻 中央公論社)清水好子『源氏物語の方法』(東京大学出版会 1980)同『源氏物語手鏡』(共著 新潮選書 1975)小西甚一『日本文藝史 Ⅱ』(講談社 1985)廣瀬ヰサ子『源氏物語入門』(英対訳・スーザン・ダイラー 1989)中村真一郎『王朝物語』(潮出版 1993)手塚昇『源氏物語の新研究』至文堂 1926)
 以上代表的なもので、マンガにも手を伸ばした。林望の『源氏』はそれ自体でも面白く、その才を堪能した。それでも、やはり折口さんの源氏「研究」(エッセイ)が最重要に思えた。
 4 NHKの「光る君へ」(3/3)はすさまじかった。
 いま、藤原不比等がデザインした政治システム(=日本政治システム)を書こうと、涸れかかった脳汁をしぼりだそうとしているが、不調というか、油が切れたというか、「前進!」と発破をかけても、駆動しそうにない。
 そうそう、最近、電話がときにある。どうも飲屋関係の人かららしい。人尋ねだ。もともと「人の名」や「電話番号」を憶えないようにしてきた。理由はあったが、その理由がなくなっても、固有名詞や番号を覚えることが出来なくなった。それにススキノに足を向けなくなって、10年余になる。退職してからだ。車も捨てた。何か、茫々としているが、シンプル(素寒貧)でもある。

◆240301 読書日々 1633 「光る君へ」(1)
 1 今日のように、雪が積もらないと、ほっとする。雪はねが必要で、それを担わなければならないからではない。結婚以来、雪はねが必要になったのは、1975~83年の、伊賀(神戸)時代から、84~2024年(厚別→長沼加賀団体〔ここは豪雪地帯であった 雪で勤務校への出勤は不能になることが、ままあった〕→厚別)のおよそ40年間の長きにわたる。ほとんどすべて、雪撥ね具は変わったが、妻・規子さんの力に負っている。70歳代の後半に入った現在もそうだ。
 現在は、このマンションの住民の方たちの大きな助力があるものの、常に体の小さな規子さんが率先して、雪はねは敢行される。これには、感嘆・感謝の他ない。ま、言葉だけで恥ずかしいが。(そういえば、父は、終生、雪撥ねを独力でやっていた。広い「店」前を、ていねいに、ときには一日中、芸術的と呼びうるほど丁寧かつ美しく、雪をはねていた。母はまったく手を出さなかった。子供が雪撥ねを手伝わない、両親のいずれかが占有するという意味では、父母の時代と私たち家族の時代で、内容は違うものの、形は同じだ。)
 2 今年のNHK大河、「光る君へ」は力作だ。面白い、というより、恐ろしい。
 日本史の中に数多くの「天才」がいる。
 「天皇」家の創業者中大兄王(天智)やその継承者をマネジングした藤原史(不比等)がいる。藤原道長はその末流で、紫式部はその「末流」=「大河」を泳いだ。
 2010年頃、『源氏物語』に浸っていた。マンガをふくみあれこれ耽読した。その成果を、『日本人の哲学』第1巻「哲学者列伝」に納めた。
《§2 光源氏物語  歴史と小説
△時代小説
 『源氏物語』は「もののあはれ」の文学、「殊に人の感ずべき事の限りをさまざま書きあらわして、あはれを見せたるものなり」といったのは本居宣長である。しかし、折口〔おりくち〕信夫がいうように、「(もののおあはれのように)趣味だとか、哀感だとかという程度でなしに、残忍な深いもの」をもって書いてあるのが『源氏物語』である。
 それに源氏物語の結構は「歴史小説」である。この規定ににわかに頷きにくい人でも、「源氏の一代記」である、さらにいえば、源氏と紫の上を中心に展開される物語である、ということにはさほど反対されないであろう。
 では『源氏物語』はいつの時代、天皇の御代を擬して書いたものであろうか。これははっきりしている。
 源氏の父である桐壺帝に擬せられているのは醍醐天皇(在位 897~930)である。
 源氏に擬せられるのは源高明〔たかあきら〕(914~982)で、 醍醐天皇の皇子、母が更衣の源周子である。高明は九二〇年に源氏を賜姓され、参議、中納言、大納言、右大臣から九六七年に左大臣に進んだ。だが藤原氏に警戒され、菅原道真と似た形で、九六九年「安和の変」で大宰権帥に左遷されて、失脚する。九七二年帰京を許された。
 当代の天皇は七歳で即位した一条天皇(在位986~1011)で、その后は紫式部が仕えた彰子(中宮)であり、道長の娘である。
 もちろん小説である。モデルと作中人物は同じではない。たとえば臣下である光源氏が賜った位、「准太上天皇」などというのは歴史上「前例」がない。『源氏物語』は「過去」物語で、政治的文化的に「現在」とは切れ離れているという「構え」をあくまでもとっている時代物、フィクションであるということだ。
 その特徴をいえば、『源氏物語』の舞台は、政治的には藤原氏の権勢独占を嫌った皇室・天皇が、菅原道真を登用したり、皇子を臣下に降すなどして重用し、藤原氏独占を牽制した時代に当たっている。》(以下次回)